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◆ リメールを往く船の上(2)


 陽だまりの中、まどろんでいた。
 心地よい揺れと暖かさに、つらつらと――吸い込まれるように意識は溶けて。

「い、いま何時ですかっ!?」

 しまった寝過ごした、と思った瞬間にクレアは跳ね起きた。
「……まだ10分と経っていないぞ」
 寝入り端に起こされたか、はたまた訪れかけの眠りを遮られたか。
 勇者がこめかみを押さえつつ 「ほら」 と引っぱり出してみせた、懐中時計の針は、午後二時を回ってもいなかった。
「あ、あら?」
 あたふたと周りを眺め渡せば。太陽も、ここへ来る途中に見た位置からほとんど動いていないようだ。
「あら、じゃないだろう……まあいい」
 寄りかかっていた手摺から上体を起こしたシーヴァスは、さほど気分を害した様子も無く話題を変え。
「それで? ジャックハウンドは無事だった、と言ったな」
「はい! ヤルル君と一緒に、ガルフへ帰っていきました。リュドラルさんたちが送ってくださって」
 クレアは、ホッとしつつ経過を報告する。
「脅威と思われていた合成獣は、問題の魔術を行使できなかったんです。契約関係にあったイウヴァートが、インフォスに干渉できなくなっているらしくて――ヤルル君が攻撃したら、割とあっさり」
「イウヴァート? 以前、アドラメレクが “支配者” と呼んでいた堕天使か」
「ええ。単にインフォスを離れているだけか、それとも死滅したのかは、きちんと突き止めたいところですけれど」
「……どちらにせよ、影響が薄れたなら悪いことじゃないだろうな」
「そうですよね」
 けれど、どこかにアポルオンが潜んでいる限り油断禁物で。
「ならば、ウィリング家の方は心配なくなったか――各地の情勢は、ひとまず落ち着いたわけだな」
「落ち着いてるわけないじゃないですか!」
 アドラメレクやマキュラ、后妃ミライヤといった脅威が潰えたとはいえ、未解決の問題はいくつも残っている。
「まだ騎士リーガルの行方も判りませんし、ファンガムはクーデター兵に占領されたままなんですから」
「あのな……」
 深々と息を吐いた、シーヴァスは呆れ混じりの眼を向けてきた。
「前々から思ってはいたが。少しは、信じて任せるということを覚えたらどうなんだ?」
 やぶからぼうな言葉の意味を、とっさに呑み込めず。
「?」
 戸惑うクレアを見つめ、さらに言う。
「ファンガム奪還はアーシェ殿、ヘブロン防衛はレイヴの務めだろう。軍部も動いていることだしな――戦地へ赴く段階までは、それぞれの判断に委ねておけ」
 気遣ってくれたらしいと受け止めつつ、クレアは釈然としないものを感じた。
(それじゃあまるで私が、みんなを信じてないみたいじゃない?)
 非常に心外である。
「仕事熱心もほどほどにしておかなければ、肝心なときに身動きが取れなくなるぞ? 過労で倒れたり、な」
「そんなことないです。自己管理くらい出来てますよ」
「そうか? ……では」
 こちらの反論も軽く流して、勇者は少々意地悪く笑った。
「余裕の欠片もなく引き攣った顔が、生活に疲れた人間めいて見えたのは――私の思い過ごしということか」
「ええっ!?」
 反射的に、しゃがんで海を覗き込むが。
 ここが湖であればまだしも紺碧の水面は、鏡代わりにならず、自分がどんな表情をしているのか分からない。
「か、顔……怖かったですか? 今も変ですか?」
 ぺたぺたと両手で頬を触ってみつつ、焦り訊き返しても。
「さあ? どうだろうな」
 シーヴァスは笑みを深めるばかりで、質問に答えてくれない。

 忙しくなかったと言えば嘘になるが、こんなふうに指摘されてしまうほど酷かったか? 確かに戦乱が続発していた時期は考えることも山積みで、たまに頭痛を覚えたりもしたけれど――

(……そういえば)

 頭の両端がひんやり重かった感じが、消えたのはいつからだったろう?

「話を戻すが――ファンガムの件は別として。他にまだ、なにか抱えている揉め事があるのか?」
 ずるずると思考の渦へ陥りかけていたクレアは、問われてようやく我に返る。
「報告されている事件は無いです、けど……」
 そう考えれば確かに、インフォスの状況は落ち着いているわけだ。だったら今日こそは急いで、
「ナーサディアに会いに行かなきゃ」

 彼女を訪ねていくのに、不安を煽るような暗い顔は見せられない。
 ずっとカノーアに留まっていたら、ボルサ周辺の変化ばかり気になってしまうだろうし、
「兄の行方が分からなくても、きっとジャックとは話したいと思うんです。だから――気分転換も兼ねて、ガルフへ足を伸ばしてみないか誘おうと思って」
「……そうか」

 頷いたシーヴァスは思い出したように、疫病騒ぎの折に、神獣から聞いたという話をいくつか教えてくれた。
 中にはクレアが把握していなかった事実もあり。
 当時のラスエルを知る者たちを引き会わせてやりたいと、願う気持ちは、ますます強まる。

「さて、と――そろそろ時間だな」
 ひとしきり語り終えた勇者は、すっと立ち上がり。
「時間?」
「30分経過、だ。ナーサディアの元へ行くんだろう?」
 金の懐中時計を翳してみせつつ。座ったまま目を瞬いているクレアに、手を差し伸べた。

×××××


 カノーアへ向け飛び去っていく天使を見送った、シーヴァスは、ひとり甲板に佇み苦笑する。

(……まったく)

 魔族ケルピーと戦ったクレアが、昏睡状態に陥り。
 さらに浴室で湯当たりを起こした――あれは何年前の出来事だったか。倒れるまで己の疲労具合に気づかないあたり、まったく進歩していない。医者の不養生とはよく言ったものだ。
 インフォスの文化風習に慣れるにつれ、良い意味でくだけてきた部分もあるにはあるが。
「まあ、六年も経つんだ。なにひとつ変わらない方が不自然か……」
 やれやれと笑いながら踵を返しかけ、はたと立ち止まる。

 六年だと?

 なんの勘違いだ? たった今、自分の口から零れた単語は。
 出会ってからというものクレアたちは、子供のティセナにも、歳を重ね成長した様子などまったく――いや、天界と地上の時流は異なるのだったか。

 一年目は、闇馬車退治などを請け負い。
 二年目にはソルダムへ赴き、孤児となった幼女を連れタンブールへと旅した。
 クレアが静養の為、ヨーストに滞在していた夏は三年目。
 四年目には、フィアナ・エクリーヤが堕天使によって呪殺されかける騒ぎがあり。どうにか事無きを得、冬を越して。
 翌年すぐ、南大陸に蔓延した疫病が治まったのも束の間、レイヴ失踪を皮切りにインフォス全土が荒れ続けた。
 ファンガムで発生したクーデターは、天使の勇者となって六年目の出来事である。
 確かに、それだけの月日が過ぎているはずだ。

 ……ならば私は?
 23歳の誕生日をいつ迎えた? クレアが祝ってくれた、あの夜には?
 ならば天使とは10代の頃に知り合っていなければ、計算が合わなくなる――六年前には勇者に任ぜられていた?
 17歳のとき、すでに?
 その頃はまだ王立学院に在籍していた、依頼に応じて各地を旅することなど出来るものか。


「時間が流れて、いない……!?」


 呆然と呟いた台詞が実感となって、眩暈のように襲い来る。
 よろめいた弾みで肩から帆柱にぶつかり、ガタンと大きな音をたてたシーヴァスを見咎め、


「お、お客様! どうなさいました、船酔いですか?」

 水兵服の船員が走り寄ってくるが、その声や姿も、もはや幻聴の類にしか感じられなかった。



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フツーに考えれば気づくだろう異変。
勇者陣のなかでも感受性が鋭いらしいシーヴァスなら分かりそうかなぁと思いまして。