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◆ 水の畔(2)


 どうにか追いつき引き止めたまでは良かったが――勢い余って、クレアを巻き添えに湖に転げ落ち。

「…………!!」

 シーヴァスは、湖底に足を付けば水面が肩に来る程度の深さだったため、難なく立ち上がったが――天使の方は身長が足りず、纏わりつくローブと思うように動かぬ右手、さらには自身の銀髪に視界を阻まれてパニックを起こしたように、バシャバシャと必死でもがいてる。

「す、すまない! だいじょうぶか?」

 慌てふためき腕を引いて、水中から助け起こせば、
「いっ、たい、なにがどうなって……」
 クレアは、ひとしきりケホコホと咳き込みながら視線を巡らせ。夕陽を照り返す湖面と、風にそよぐ木々、未だ掴まれたままの右手首――それからようやく真正面を仰いだ。
 きょとんとした眼差しを、ずいぶん久しぶりだなと思いつつ見つめ返すこと十数秒。
「? ??」
 状況が飲み込めないようで、しばらく瞳を白黒させていたクレアだが、
「シ、シーヴァスっ!?」
 唐突に叫ぶなり真っ青になって踵を返そうとするも裳裾に足を取られたか、さっきとは逆に、こちらを引きずり倒す勢いで、
「きゃあ!?」
 どばしゃんっ、と仰向けにひっくり返り。
「お、おい。クレア……」
 うろたえつつも踏み止まったシーヴァスが再び抱き起こすと、またもや悲鳴を上げてじたばた暴れ始めた。
「は、放してください!」
「断る」
 振り切って逃げようとするならするで、せめて岸に向かえば良いものを――つい今し方溺れかけたばかりだろうに、なぜ、足も届かないような深みへ行こうとするんだ?
 単に思考が回っておらず、眼前の男から遠ざかりたいだけか。
 それとも水属性という本能なのか、どちらにせよ――おそらく自分が放しさえすれば、彼女は、造作なく湖から上がれるんだろうが、
(……次はいつ降りてくるかも、分からないというのに)
 いつだったか、地上界の物質に強く干渉されているとアストラル体には戻れないと聞いた、あの話は本当だったようだ。
「放したら逃げるんだろう?」
「逃げてないです、頭冷やしに行くだけです!」
 ぶんぶんと首を振るクレアの焦りを代弁するように、見慣れた光が不規則に明滅しているものの――普段と違って、微弱なまま掻き消えていく。こうしている限りは逃げられない、らしい。
「なんだろうと同じことだ、私は空へは行けないんだぞ!?」
 出会い頭から話の腰を折られてしまい。ようやく捕まえてみれば、まるで変質者に襲われたかのごとき拒否反応。
 さすがに辟易してきたシーヴァスが声を荒げると、
「すっ、すみませんでした! もう教会の周りをうろうろしません! 魔族絡みの厄介事、持ち込んだりもしませんから……」
 びくっと竦み上がった天使は、叩かれるとでも思っているのか両手で頭を抱え。
「――なぜ、君が謝るんだ」
 当惑すら通り越して、シーヴァスは、がくりと肩を落とした。
「逆だろう?」
 どう考えても怒る権利は彼女にあって。謝らなければならないのは、こちらの方だろうに……。
「すまなかった」
 クレアが耳まで塞ぐように縮こまって、動こうとしないため、
「謝るから。償いに足るか分からないが、どんな依頼だろうと受けるから――」
 気持ち、声を強めに言う。途方に暮れた気分を押し隠すほど器用には出来なかったが、せめて間違いなく聴こえるように。
「頼むから、逃げないでくれ」
「に、逃げてないです!」
 しかし、おそるおそる顔を上げたクレアは逃げ腰のまま、説得力皆無な主張を繰り返す。
「逆なことも無いです。シーヴァスが怒っているんですから、お詫びして、今後は一切ご迷惑かけないように……」
「だから、私が君の、何に対して怒るというんだ」
「だってご両親が亡くなったのは私たちの所為ですし、結晶石も手元に置かれていないということは、つまりもう顔を見たくないし話もしたくないっていう意思表示の――」

(やはり、そっちか……)

 シーヴァスは今度こそ頭を抱えた。
 まったく予想しなかったわけではないが、どうやら悪い方の予感が当たってしまったようだ。

「――石は、持ち歩いていないんじゃない」
 こうなると、ティセナや妖精たちが、彼女になにも告げていないらしいことが逆に厄介だった。
 臆病で身勝手な男と呆れるなり怒るなりしていてくれれば、まだ、謝罪すべきことは明確だったものを……不在中の行動、理由、すべて告白しなければ会話そのものが噛み合わない。
「勇者でいるのに嫌気が差して、捨てた」
 たったこれだけ告げるのにも、魔物と戦うよりよほど覚悟が要った。そうして案の定、
「やっぱり怒ってるんじゃないですかあ! 追いかけて来て怒鳴らなきゃ気が済まないくらいにー!!」
 こちらが話し終えないうちに早合点する、天使の曲解は激しさを増すばかりだった。
「そうじゃなくて」
 そもそもクレアは、基本的に察しは良い方だ。
 ただ、色恋沙汰を含め、天使には無縁なんだろう感情に関しては――特に昔は、こちらの一般常識の斜め上を行く解釈を繰り返していた。
「アドラメレクと戦ったあと、なにもかも嫌になって焼け跡に捨てて。頭が冷えてから、タンブールに戻って探そうとしたんだが……」
 勝手に思い込んだ挙句に生じた、拗ねた子供めいた失望を察しろという方が無理な話で。だったら、洗い浚い吐露してしまうより他に解ってもらう術はないだろう。
「再建された礼拝堂を壊してまで、掘り出すのも気が引けて」
「こ、壊しちゃダメですよ!? せっかくあんなに建て直されてるのに!」
 ぎょっとなった天使に頷いて返しつつ、シーヴァスは続けた。
「ああ。だから、連絡を取ろうにも取れなかったし――それ以前に、君が異端審問官とやらに連行されたことさえ、最近まで知らずにいて」
 ようやく逃げるよりも話を聞く方へ意識を向けてくれたらしく、抵抗の動きもするっと緩み。
「無事に謹慎が解ければ、教会には訪ねてくるだろうと思って待っていた」
「そ、そうだったんですか……お待たせしてすみませんでした」
 クレアは、神妙な面持ちで応じる。
「執務室に寄らないままインフォスへ来てしまったので、確認しないと断言は出来ませんけれど――退任については、あなたが “もう嫌だ” と思った時点で自動的に、天界の管理枠から外れているはずですから」
 とりあえず落ち着いて話せる体勢になっただけ、良かったと思わなければならないんだろうが。
「だから違う。私は、勇者を辞めに来たんじゃない」
 小首をかしげた天使は、ますます解らないと言うように真顔で問い返す。
「? ……でも、嫌になったんですよね?」
「一時でも嫌気が差したのは事実だが、今は、そうじゃない。君が考えているようなことじゃなくて――」
 これだけ言えばいい加減分かって良さそうなものをと、恨みがましく捉えてしまう理由は結局のところ、甘えなんだろう。
「意味が無いのかと思ったから」
「いみ?」
「魔族と渡り合える人間なら誰だろうと同じで。べつに私でなくとも、かまわなかったのかと思ったんだ」
 出会ってからずっと。
 付き合いを負担に感じることなど滅多に無い、居心地の良い相手だった。
「……君が、否定しないから」
 いつの間にかそれに慣れ切っていた、けれど。
「君たち天使にとって、自分は――駒でしかなかったのかと」
 言葉なり態度なりで伝える努力をしなければ、気持ちなど、そうそう相手に伝わるはずもないのだった。
「堕天使にとってのアドラメレクと、変わらぬ価値しか無かったのかと思った」
 やっとの想いで鬱憤を吐き出せば、クレアは、まず意味そのものを図りかねたように眉根を寄せ、
「こま、って……」
 しばらく考え込んだあと、こちらを唖然と凝視するや否や、

「そ、そんなこと思ってないです!!」

 さっきまで逃げ出そうとしていたことすら忘れたように詰め寄ってきて、がばっとシーヴァスの襟ぐりを掴むなり、悲鳴じみた声で叫んだ。
「駒だなんて考えたこともないです! それはっ――直接介入が許されていないからといって、ヒトを戦いに赴かせる行為が、そうだと言われたら違わないかもしれませんけど、でも」
 否定しようとするうちに混乱してきたようで、まくしたてる勢いは途中から消え入りそうに弱まっていき。
「なら、いい」
 そんな彼女を眺め下ろしながら、シーヴァスは安堵の息を吐いた。
「……安心した」
 すっかりおとなしくなったクレアは、少し引き寄せれば、いとも簡単に腕の中に収まり。
「え、えと」
 借りてきた猫のごとく、おどおどと身を硬くしながら言う。
「良くないと思うんですけど」
「なにがだ?」
 だいたいの想像はついたが、あえて微苦笑を浮かべつつ訊き返す。
「天使を疑うような不信心な勇者は、手伝わせてくださいと、天の御遣いを拝み倒すところから始めなくてはならないか」
「そうじゃなくて。お願いするのは、私の方だと思うんですけど――」
「ならば望みが一致したということで、問題は無いな?」
 するとクレアは、困惑したように首をひねった。
「…………無いんでしょうか?」
「私が勇者では、不満か?」
「とっ、とんでもありません! 私、頑張りますから……これからも宜しくお願いします!」
「ああ」
 シーヴァスは、笑って頷いた。

 いつもの調子を取り戻してみれば、彼女は、いっそ解りやすいほど率直な性格をしていて。
 こちらが誠心誠意謝罪すれば、突っぱねられることなど有り得ないと思うのに――ただ、本心を告げるというだけの行為が、こうまで骨の折れるものとは。そこいらのモンスターを相手にするより、よほど疲れた。
(もう、二度と御免だな)
 クレアを抱きしめたまま湖の淵に寄りかかると、細波のように水面が揺れた。

「でも、あの。ちょっと……放してくださいませんか?」
「何故?」

 すっかり疲労感に苛まれていて今すぐに戻るのは億劫であるし、腕に閉じ込めた天使の柔らかさも、手放し難いものがある。
「落ち着かないんです」
 緩むどころか強まる一方の拘束に、きょろきょろ、そわそわと身じろぐ様も見ていておもしろい。
「もう、逃げませんから――」
 シーヴァスが応えずにいると、訴える声音にだんだんと懇願の響きが混じり始め。
「にっ、逃げてないです! 最初から逃げてないですよ? そうじゃなくてですね……!!」
 自ら呟いておきながらハッとして、あたふたと自分で否定している。
 どう考えても逃走する気だったとしか思えないのだが、彼女としては、それは意地でも認めたくないらしい。
「嫌か?」
「――え?」
「私にこうされているのは、嫌か?」
 あまり調子に乗って怒らせてしまうのは本意でないが、出来れば、もう少しこのままでと思う。
「嫌……?」
 面食らったように瞬いた、クレアは、ややあって戸惑いがちに答えた。
「嫌では、ないです、けど……落ち着かないです」
「そうか?」
 “嫌ではない” という返事を免罪符に、シーヴァスは、もうひとつ本音というかワガママをぶつけてみることにした。
「私は、これ以上無いというくらいに気分が良いんだがな」
「こんなずぶ濡れになって。びしょ濡れの私を抱えて、落ち着くんですか?」
 驚きと呆れをない交ぜに問い返した、天使は訝しげに断じる。
「……シーヴァス、変です」
「どうも、そうらしいな」
 あっさり認めてやると、とうとう返す言葉も失ったらしく――諦めたような吐息をこぼして身体を預けてきた。

 そのまま気が済むまで、暮れゆく夕陽が宵闇に染まり始めるまで。



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俗に言う “砂を吐きそうな” 代物を、自ら書いても抵抗感じないのがフェバの不思議なところ。シーヴァスは、よーやっと腹括ったというか自覚。クレアは……落ち着かないぶん昔よりは意識してるけれど、任務と兄さんのことで頭一杯で、恋にまでは行ってなさげ。