NEXT  TOP

◆ 秘奥


 風そよぐ湖畔に、二人きりで。どれくらいそうしていたろうか――

「シーヴァス? あの」

 半ば根負けしたように、されるがままになっていたクレアが胸元で身じろぎ。へにょ、と眉根を寄せた。
「いくらタンブールが暑い土地でも、風邪引きますよ? あんまり水浸しでいたら」
「ん……」
 浅い眠りを、急に遮られたような気分で。
「そうだな。そろそろ戻るか――」
 辺りを見渡せば、いつの間にか空は橙から藍へと色を変えていた。
 北大陸の国々に比べ、特に夏場のクヴァールは陽が長いぶん、午後七時を過ぎればストンと暮れてしまう。
「ひ、ひとりで上がれますよっ!?」
「いいから」
 濡れそぼった天使を抱きかかえ、草地へ上がると。
 袖口や裾から、ざあっと流れ落ちた滴が見事な水溜りに形を変えた。
 加えて、湖でじっとしている間はほとんど気にならなかったが、さすがに身体も冷えていたようで――全身に纏わりつく衣服が鬱陶しい。
(一晩で、乾けば良いが……)
 原因が己にあろうとも、不快なものは不快に違いなく。
 クレアを降ろして、ひたいに張りつく前髪を掻き上げながら、あらためて 「すまなかったな」 と謝ろうとした勇者に先んじて、
「ちょっと、動かないでくださいね?」
 すいと手を伸ばした彼女が肩に触れた、とたん――服を重く濡らしていた水気は、キレイさっぱり消し飛んでしまった。
 一拍遅れて、魔法で乾かされたらしいと認識したときにはもう。
「よいしょ、っと」
 天使のローブや銀髪まで、いつもと変わらぬ、ふわふわと空気を含んだような質感に戻っており。
「……なにをした?」
「水分、飛ばしただけですよ」
 ごく当然のように答えた彼女を咎めようとして、はたと詰まる。

 どこに文句を言う必要がある?
 労せず不快感が取り除かれたというのに、なにが不愉快だと――?

「…………ありがとう」
 軽い混乱に見舞われた頭から、どうにかこうにか礼の言葉をひっぱり出せば。
「いえ。簡単なことですし、風邪を引いたら大変ですから」
 クレアは笑って首を振った。
 すでに周辺が薄暗かったため、ほんの数秒ながら顔を顰めていたシーヴァスの様子には、気づかなかったようだ。



 確かに自分は “変” らしいと、認めざるを得なかったが。
 あれやこれやと隣を歩きながら話しかけてくる天使を、無視するわけにもいかず。

「ちょっと、あんたら――っていうか、騎士様!!」

 教会へ帰り着いてみれば、なおさら考え事どころではなくなった。
「なんだって言うのさ、いったい!? この子が来てくれるのが後ちょっとでも遅かったら、あたしリヤカーごと坂道転げ落ちて、せっかく買い溜めた食料おじゃんにしちまうところだったじゃないか!」
 食料小屋の前でキャベツを抱えていた女賞金稼ぎが、眦をつり上げ詰め寄って来て。
「クレアもどうして、いきなり逃げ出したりするわけ? なんかあったの?」
「に、逃げてないです! 頭冷やしに行こうと思っただけですっ」
「まだ言うか……」
 ムキになって反論する天使を見やり、その頑なさに嘆息しながら。
「……ん? この子?」
 フィアナの台詞に引っ掛かり首をひねったシーヴァスに答えるように、小屋の中から、姿を現した人影は。
「インフォスに降りてからこっち、いろんなパターンの呼び出しを受けてきましたけど――」
 心底呆れ返った、という眼をしたティセナで。
「こんな馬鹿みたいな理由で呼ばれる日が来るとは、思いませんでしたよ」
「ありがとねーティセナ。助かったよ」
 その場で固まったシーヴァスたちを横目に指差しつつ、小柄な天使を、ぎゅうと抱きしめる女勇者。
「悪いのは、そこの二人だかんね?」
「もちろん」
 こっくりと頷いた少女を前に、シーヴァスは冷や汗もだらだら声を絞り出す。

「す、すまない……」

 女性に重量級のリヤカーを押しつけるなどという、騎士にあるまじき所業を謝っているのか。それとも、かつての言動をティセナに詫びているのか? どちらへ向けた謝罪なのかさえ、自分でも判然としなかった。
「ごめんなさい、フィアナ! 慌ててしまって、気が回らなくて……」
「まあ、無事に済んだんだから良いけどさぁ」
「ティセも、ごめんね。ごめんね?」
「馬鹿らしすぎて怒る気にもなれませんよ、もう」
 この二人がクレアに甘いだろうことは想像に難くなく。また、フィアナの怒気は元からさほど強くなかったようで、
「クレア様は、この後? みんなに復帰報告しに行くんですか?」
「うん、ナーサディアとアーシェには、もう会ってきたのよ」
 あっさりと普段どおりの会話に移った天使たちに、
「夕飯の片付けが終わったら、教会をお暇して。グリフィンを訪ねて、グルーチの偵察を終えたら、レイヴにファンガム奪還の助言をもらおうと思うの……それからまた、ルースヴェイク城に行って来るわ」
「分かりました」
「あ。ベテル宮に寄らないまま来ちゃったんだけど、問題無かったかしら?」
「ええ。発生した事件の顛末は、随時、報告に伺うようにしていましたし。そろそろ謹慎が解けるだろうとは判っていましたから――クレア様がお戻りになったことは、妖精たちも感じ取っているでしょう」
「こないだ、ちょっとシェリーに会ったけど。あの子ら探索任務で飛び回ってるんだろ?」
 フィアナも加わって、今後の方針について話し始める。
「ずいぶん無理をさせちゃっただろうし、きっとストレスも溜まっているわよね? ティセもだけど、交代で休みに……」
「そういうのは後です。どこかで事件が起きたら、挨拶回りどころじゃなくなりますからね――さっき仰っていた予定どおりに。インフォス全土を巡っていくなら、途中で、ローザたちに会うこともあるでしょう」
「それもそうね、分かったわ」
「それじゃあ。私は、仕事に戻りますから」
「え? 夕飯、食べて行きなよ。まだ少し時間かかるけど……」
「にぎやかな場所は苦手です。それに――体力は削られなくても精神的に堪えるものですよ? 謹慎って」
 フィアナの誘いに、肩をすくめながら。
「敵の動きは、私が警戒してますから。みんなに会って団欒する間くらい、ゆっくりくつろいで英気を養っておいてください」
「……ティセ」
「それが終わったら、また仕事漬けの毎日なんだから。覚悟しといてくださいよ?」
「うん、ありがとう」
 迷う上司に言い含めたティセナは、少し笑って一歩下がり。
「んじゃ、お言葉に甘えて。クレアの復帰祝いも兼ねて宴会やるかぁ!」
 宣言したフィアナが、不意に、すっかり蚊帳の外に置かれていたシーヴァスを振り返り。
「そうそう。悪いんだけど、騎士様。そこの小麦袋を運んどいてくれる? あと、それだけなんだよねー」
「…………分かった」
「頼んだよ。それじゃクレアも、ちょっとこっち手伝って」
「あ、はい!」
「あんたのお祝いだってのに扱き使うのもアレだけど、まともな調理具もほとんど無くてさぁ。包丁や食器を幾つかジェシカが譲ってくれたから、まだマシになったけど――買って来ようにもタンブール全体が焼かれてるから、生活必需品はどっこも品薄品切れで。子供ばっかりの大所帯なもんだから、時間かかってしょうがないったら」
 盛大に愚痴りながら、ティセナに手を振って。
「じゃあまたね。あんたも、あんまり無理するんじゃないよ?」
「また後でね、ティセ」
「ええ」
 クレアを伴い、母屋へと入っていった。
 結果、最も苦手とする少女と二人きり、その場に取り残される羽目になったシーヴァスは――気まずい沈黙に焦りつつ、言葉を探すが。
「…………」
 考えたからといって、どうにかなる類のものではなさそうだった。

 クレアなら、誠心誠意謝りさえすれば――と思えたが。
 任務放棄の以前から良好とは呼べなかった間柄のティセナが、間違いなく怒っているだろう訳で。そんな甘い対応で済まされるはずも無い。

 だが、勇者で在り続けようと決めたのだ。
 クレア不在という非常時に、この少女にこそ面倒をかけたのだから、守護天使に許されればそれで良いとも思えない。とにかく己の意志を伝えるしかないだろう。
 あとは殴るなり蹴るなり、気が済むようにしてくれと、
「……ティセナ」
 ごくりと唾を呑み。容赦ない罵声その他を覚悟して、口を開けば――

「っ!?」

 真横から飛んできた何かが、ガツッと側頭部にぶつかり。
 脳天に響く硬い痛みに、早速殴られたのか? しかし拳が届くには身長差が……などと考えつつ片手で頭を押さえ、傍らを窺い見ると。
「……ホント、馬鹿みたい」
 呆れも通り越したような白い眼をして。
 ふん、と鼻を鳴らした少女は踵を返して、そのまま転移魔法で消えてしまった。

「………………」

 ずしりと堪えた、馬鹿呼ばわりに。
 がっくり項垂れたシーヴァスの、視界の隅で――太陽と入れ替わり、月が朧に照らす景色の中で、なにか青いものがキラリと光った。





「シーヴァス?」

 とりあえず頼まれごとを片付けて。食料小屋の壁に寄りかかり、物思いに耽っていると、
「そろそろ、お夕飯出来ますけど……あら?」
 扉代わりのカーテンを開け、母屋から出てきたクレアが瞳を丸くして、こちらの手元を覗き込み。
「礼拝堂じゃないところにあったんですか? それ」
「私の物……か?」
「あなたの波長としっかり融和していますから。アドラメレクと戦ったときまで、ずっと持ち歩かれていた石だと思いますけど」
 小首を傾げつつ答えた彼女は、突然、すっとんきょうな声を上げて礼拝堂を振り返った。
「まっ、まさか床を掘り返しちゃったんですか!? 小麦を運ぶだけにしては、ずいぶん遅いなと思ったら――代わりの結晶石ならあったのに!」
「それは断念したと言ったろう?」
 苦笑いしつつ、シーヴァスも未だ、半信半疑の心境から抜け出せずにいた。
「どうも、ティセナが……拾っていたらしいな。さっき渡された」
 渡された、と言うと語弊があるかもしれないが。
 久方ぶりに手のひらに在る碧玉を、そうだろうとは思いつつも――勝手にしろという意味なのか、戻ってくる可能性があるという程度には信用されていたのか、少女の真意を図りかねて。
「……そうですか」
 瞠目したクレアは、嬉しそうに笑ったきり。
「じゃ、お夕飯にしましょう?」
 すっきりした面持ちで促すが、シーヴァスには、到底思考の整理がつくものではなかった。

 どういうつもりだと追及しては余計にティセナを怒らせるだろうか、問うこと自体が野暮か?
 どのみち真意を質すなら、楽だからとクレアを介さず、少女自身と話すべきだろうが――考えるうちに、もうひとつ、ずっと抱えていた疑念を思い出す。
 今なら周りには誰もいない、ちょうどいい。

「そうだ、クレア」
「はい?」
 きょとん、とこちらを見つめ返した天使が、
「堕天使を倒しさえすれば、インフォスの時流は正常に戻るのか?」
「は……?」
 面食らったように瞬いていたのは束の間で――いきなり、がばっと覆い被さるようにして人の口を塞いだ。
「それ、誰が言ったんですか!」
「…………!?」
「アドラメレクが? それとも私の不在中に、堕天使が接触してきたんですかっ!?」
 夕闇でも判るほど真っ青になった、クレアの剣幕はもちろんのこと。
 さっきの湖とはまた別種の至近距離に、シーヴァスは、柄にも無くうろたえる――だいたい、これでは答えようにも声が出せない。

「おち、つけっ……!」

 どうにか天使を引き剥がして、むしろ己を落ち着かせるために言う。
「べつに、誰かに言われたわけじゃない」
「? どういうこと、ですか?」
「勇者になって、もう六年以上が過ぎたのかと。ふと考えてみたら、君たちの姿は知り合った頃とまるで変わらない――それはまだ、天使や妖精だからだと納得も出来るが。逆算すれば――私が勇者になったのは17の頃、となる」
 こうして、疑念を言葉にしてみると。
 気が楽になると同時に、あの日、船上で感じた怖気が蘇ってくるようだった。
「まだ王立学院に通っていた時期に、インフォス各地へ魔物退治の旅に出るなど不可能だ。妙だと思って記憶を辿れば “23歳の誕生日” を何度も迎えているし……だが、細かい部分は、靄が掛かったように思い出せない」
「自分で……?」
 呆然と呟いたクレアの、表情が、ひどく虚脱したものに変わり。
「……有り得ない」
「お、おい?」
「いくら勘が鋭いからって、有り得ないにも程がある――」
 さっきまでの剣幕はどこへやら。天使は、力なくその場にへたりこんだ。



NEXT  TOP

天使との関係が恋になると、魔法や羽とかは、種族の差を感じさせて複雑な気分になりそうな。ティセナはティセナで、大好きなクレア様を取られそうな予感に駆られて複雑です。