◆ 君に捧ぐ忠誠(1)
リメールを往く船の上から、仰いだ空は、透けるように晴れていた。
(ずいぶん、久しぶりに見た気がするな……)
こんな鮮やかな蒼は。
いや、実際――もう何年も、目にしていなかったのかもしれない。
陽光にさらされ続けたカーテンや、洗濯を繰り返した布地がじわじわと色褪せていく、微々たる変化に気づかぬまま……何年も経って、ふとした瞬間に戸惑いを覚えるように。
「――時の淀み、か」
懐から取り出した、水色の結晶を眺めながら。
クレアと再会した日の晩に、交わした会話を思い返す。
『シーヴァス……今、気持ち悪いでしょう?』
『今は、そうでもないが――気づいた直後は、吐き気が治まらなかったな』
『嘔吐感くらいで済んでいたなら、症状としては軽い方です。常人だったら発狂してもおかしくない負荷なんですよ?』
信じられない有り得ないと、途方に暮れた様子で顔を上げた彼女から、
『やっぱり、もうひとつ持っていてください』
“ふたつめ” を手渡された瞬間、薄靄が吹き払われたように色を変えた、景色。
そのときは、雲間に隠れていた月が現れたかと深くは気に留めなかったが……一夜明けてみると、昨日までとの落差は歴然としていた。
気分や天候がどうこうといった話ではなく、世界の色調がまるで違う。
この視え方が、より強く “天の加護” を受けるようにになった効果だと言うなら。
今の自分は、本来、インフォスが在るべき様を見ていると――?
(……いや。肌身離さず持ち歩くようにしても、根本的に足りないと言っていたか)
どれほど強い聖気を以ってしても。
たとえ、大天使ガブリエルの魔力が込められた結晶であっても。
星そのものに深く根を張った捻れの影響すべてを、撥ね退けることは不可能であり。
勇者となった日に渡された “水の石” とて――天使のみならず、人間にとっても猛毒に等しい瘴気を弾き、戦闘によって生じるストレスを緩和する効果しか持たない。
『インフォスの時は、流れていません』
『いつからだ?』
『正確な年数は分かりません。観測機関の人たちが調べたときにはもう、止まっていたそうですから』
ならば、少なくとも……クレアと出会った時点で既に、ということになる。
『なぜ言わなかった?』
『どうにか出来る問題なら相談しました。けれど、淀みの元凶が何であるかさえ判らない状態で伝えても、ただ精神的な負担を増やしてしまうだけだと思ったんです』
うなだれ肩を落としながら、彼女は続けた。
確かに、初対面の自称天使から、いきなり 『時が停まっている』 などと聞かされては――興味や使命感などより、困惑と不信が先に立っただろう。
『なにより、異変を知ることによって生じる恐怖や混乱も、綻びを広げる要因になりますから』
『今まで気づいた者は、いなかったのか?』
『ええ。グリフィンが、気づきかけたことはありましたけれど……』
以前、悪霊の群れから逃げ遅れた少女が。
異空間に閉じ込められたのを、無傷で助けるために、救出が “一年後” になってしまったにも関わらず――その祖父母の認識は、孫娘が二日間、行方不明になっていたという程度で片付いていた。
同じ月、同じ日付……その二日後として。
丸一年の空白は。
時流が狂った現実に対する、無意識の防衛本能が働き――人々の脳内で自動的に “無かったもの” として処理された。
『悪霊に攫われたなんて話したら、ショックで倒れてしまうかもしれない……かといって、お孫さんが失踪したままじゃ夜も眠れないだろうから、オムロンの町全体に魔法をかけておきましたって。そんなふうに皆でごまかしたから、グリフィンも気づいてはいないはずです』
人間に限らず、インフォスの動植物は今、異常から目を逸らすことによって自己を守っている。
万が一、大多数が自覚してパニックを起こそうものなら、爆発的な負の感情が引き金となって――ただでさえ魔族侵攻の余波により引き裂かれつつあった世界は、一瞬で瓦解してしまうと。
『ナーサディアもか?』
周りの変化まで止まって数年も経てば、さすがに目に付きそうなものだが。
『指摘されたことはありませんし、私が見てきた限りでは、勘付いている素振りも無かったです。ナーサディア自身が、本来の時流を奪われてずいぶん経つから、そういった違和も感じにくくなっているんじゃないかと……』
『――なるほどな』
いちいち、何年経った何十年過ぎたと指折り数えていては、神経が持つまい。
それでも友人知人が変わっていく中で、自分だけが若いままだった彼女は、さすがに自覚せざるを得なかったんだろうが……今のインフォスでは、誰の時も等しく止まっている。
親は老いず、子も成長しない。
人為的な不変。
まだ、勇者となって日が浅い頃には。
本当に危機など迫っているのかと、疑念を抱いたものだったが――天界が調査に乗り出すはずだ。
生き物が歳を重ねないなどという、あきらかな異常が観測されたのでは。
『それで、その……』
『なんだ?』
クレアは、なにか言い淀んでいるようだった。
『他にも伏せていたことがあるなら、すべて教えてくれ。この際だろう?』
うながして待つこと数十秒、ようやく彼女は口を開いた。
『……私に与えられた任期は、最長でも十年間なんです』
告げられた言葉の意味を図りかね、戒律違反のペナルティだろうかと訝るも、
『いくら無意識に辻褄を合わせて感覚をごまかしても、あるべき変化を妨げられた負荷に、生物が耐え続けるには限界があって――それまでに時流を戻せなかったら』
答えは、間を置かず返ってきた。
『インフォスに生きる、あなた方は……星ごと死滅します』
それきり縮こまったクレアは、こちらの反応を恐れ怯えているようだったが。
『…………そうか』
シーヴァスには、さほど衝撃を齎す告白とはならなかった。
驚かなかったと言えば嘘になる、けれど、言えなかった理由としては充分に納得のいく事情であったし―― “気づいた” ときの背筋が凍る感覚に比べれば、どうということはない。
『ならば、なおさら勇者を辞める訳にはいかないな』
引き受けた当初は、騎士団が掲げる大義めいて漠然としていた目的が、ここへ来てようやくはっきりと形になった気がする。
最悪の未来を回避する為にも、成すべきことはひとつだと。
無私の精神を尊ぶ、レイヴたちの生き様に敬意を抱かぬ訳ではないが――自分には、このくらい解り易い方が良い。
『残る堕天使を倒して、事の元凶を引きずり出す』
『で、でも……やっぱり気持ち悪いでしょう?』
気遣わしげに表情を曇らせたまま、一方的にまくしたてるクレア。
『話さない方が良いと思ったから話さずにいたんです、けど、協力してもらいながら隠し事をしていたのは事実ですし――嫌気が差したんでしたら、記憶は、消去する方法もありますので遠慮なく仰ってもらえば』
『それは勘弁してくれ』
放っておけば延々と続きそうな提案を、シーヴァスは苦笑混じりに遮った。
『……忘れたくはない』
わずかに瞳を瞠った彼女が、こくんと頷いて。
それから。
『出来れば、北大陸へ戻っていただけると心強いです』
なにか依頼は無いのかという問いに、少し考えて彼女は答えた。
『そろそろアーシェたちが、ファンガム奪還に向かうようなので。ナーサディアとジャックは、今から冬が来て春になるまで、ボルサ近郊から動きたくないでしょうし――』
何度かナーサディアに接触して来ていた “ラスエル” は、ベルフェゴールという名の堕天使が化けている可能性が高いことも。
そんなやり取りを経て。
タンブールの復興も軌道に乗り始めたことだしと、シスターたちに見送られながら教会を後にして……今は、こうしてカノーア行きの船に揺られている。
行きがけに抱え込んでいた猜疑心は、ものの見事に消え失せて。
我ながら単純に出来ているなと、呆れてしまうほどだったが――代わりに増えた、悩みの種がひとつ。
……どうも自分は、クレアのことが好きらしい。
いつからなのか考えると、これまた記憶がおぼろげでよく判らなかったが。
自覚してしまえば、もしかしたらあのとき既に――と、思い当たる節は幾つもあった。
『私は、君のことが好きだ。クレア』
以前、天使をからかうつもりで口にした台詞が、脳裏に浮かぶ。
冗談が冗談でなくなってしまったわけだ。こういう場合も嘘から出た誠と言うのだろうか? しかし、天の御遣いに懸想するとは、我ながら――
『まさか、クレアにまでちょっかい出してるんじゃないでしょうねぇ?』
『そんな訳ないだろう。彼女は天使だぞ』
ナーサディアと酒場で呑み明かしたときのようにはもう、否定出来ない。
好きか嫌いかで区切れば間違いなく好かれている、とは思うし。
ラスエルの行動を思えば、天使が人間に心を寄せることも有り得なくは無いんだろうが……自分には、クレアを繋ぎ止める方法など想像もつかない。
ただでさえ色恋沙汰に疎い、彼女のこと。
未だ居場所さえ判らぬラスエルの安否や、インフォスの現状を鑑みれば――そもそも、そういったことにかまけていられる心境ですらないだろう。
加えて、魔族を倒すだけでなく、時流を正常に戻すことが出来なければ。
三年と経たず、強制的な “終わり” がやってくる。
……まったく、前途多難だ。
ゲームプレイ中、この時期に至ると、だんだん世界MAP画面がどんより暗くなっていったので、そういう感じをちょっと描写してみました。