◆ 嵐の夜(1)
「……いよいよ、酷くなってきたな」
薄壁越しに聞こえる雨音に、ビュオオオォ――ガタンバッタンと、暴風の響きが混じりだす。
「ナーサディア、そろそろ止めておけ」
「え〜? まだ足りなぁい……」
傍らのカウンター席で唇を尖らせる、美貌の踊り子。
夕方から呑み始め、ずいぶんゆっくりしたペースとは言え、すでにボトル二本が空になりつつあった。
今のところはほろ酔い程度、少し呂律が怪しくなっているくらいだが――いつだったか、彼女の絡み酒にはずいぶん手を焼いた記憶がある。
「二日酔いになったらどうする」
言外に、ボルサに変化があったとき困るだろうという諌めを込めたつもりだった。
そこはナーサディアも自戒していたようで。不満げながらも、おとなしくグラスをテーブルに戻して、くたりと猫のように突っ伏す。
「……ジャック、ちゃんと雨宿りしてるかしら」
そのまま窓辺へ視線を向けた、彼女につられて外を見ようとするも、この悪天候だ。風雨が吹き込みそうな隙間は、とっくに雨戸で塞がれていた。
「そこいらの人間より、よほど賢い獣だ――心配無いだろう。どこか、適当な岩陰にでも隠れているさ」
わざわざ立ち上がってまで外を窺う気にもなれず、ぼんやりと、ここに至るまでを思い出す。
水平線の向こうに、うっすら北大陸が見えてきた頃から、ぽつぽつと雨が降り始め。カノーアへ到着したときにはもう土砂降りだった。
港に着くのが後少し遅ければ、船は、波に押し流されて難破していたかもしれない。
当初は真っ先にボルサへ足を伸ばす予定だったが、男ならまだしも、ナーサディアは妙齢の女性だ。豪雨の中、野宿するとは思えないし――仮に、彼女が森に留まろうとしても、ジャックハウンドが首を縦に振らないだろうという推測は的中。
ボルサ近郊の小さな町。
酒場を兼ねた宿屋の一階、カウンター席に、見覚えある後ろ姿を見つけたのだった。
その後一時は止んでいたものの、今にも降りだしそうな曇り空のまま、陽が暮れて……再び、雨音が激しくなってきつつある。
「あーあ。こんな天気でも、クレアがいたら退屈しないのに――」
「そうか? 彼女なら酒には付き合わず、もっと早く、身体に悪いからと言ってグラスを取り上げそうに思えるが」
訝るシーヴァスに、くすくすと笑って答えるナーサディア。
「だって、あの子。からかうとおもしろいんだもの」
「ああ、なるほど……それは言えるな。反応が真面目すぎて笑える」
特に知り合った当初の、どんな眉唾モノの話も真に受けてしまう天使の性分を、おもしろがっていた勇者は自分だけではないらしい。
さすがに最近ではインフォスの常識にも馴染んだようで、昔ほど、突飛な言動にはお目に掛かれなくなったが――と、過ぎ去りし日々を懐かしんでいるシーヴァスの隣で、
「……あなた」
ナーサディアが、ふと思いついたように言った。
「見かけるたびに違う女連れてる遊び人だって、こっちの業界でも有名だったけど……まさか、クレアにまで手ぇ出してないでしょうね?」
「!?」
唐突に浴びせられた問いに、シーヴァスは、口に含んでいたワインを危うく吹き出しかけ――自尊心と美意識を以ってどうにかこうにか飲み干すも、気管への逆流は避けられず、ひとしきりゲホゲホと激しくむせ込んだ。
ナーサディアは、あらあらと鳶色の瞳を丸くしている。
「そんな訳ないだろう!」
「あら、どうして?」
「あの世間知らずを、貴族の令嬢たちと同じように扱えるか!」
やっとのことで呼吸困難から回復したシーヴァスが否定するのに、相手は、なにも言わずころころと笑いだす。
「な……なにが、そんなにおかしいんだ?」
すっかり勢いを削がれてしまい、困惑気味に訊ねると、ナーサディアは笑みを深め応じた。
「だって、あなた――前に言ったこと、忘れたの?」
「? なんのことだ」
「意外とおもしろいわよね、あなたも」
応じはするのだが、まるっきり質問の答えになっていない。
「ヒトの話を聞いているか?」
「それにしてもホント、嫌な雨……ずっと春が続けば良いのにね」
それでは困るから堕天使どもと戦っているんだろう。ただでさえ “同じ一年” を繰り返しているのに、季節まで奪われてどうするんだと反論しかけ、
(いや、そもそも彼女は “淀み” に気づいていないんだったか?)
ただ単に過ごしやすい陽気が続けばと、そういう意味で言っているんだろうと思い直す。
しかし話題の飛び方に、脈絡が無いにも程がある――見た感じよりも酔いが回っているんだろうか?
「まあ、いいわ。当分あなたで遊べそうだもの。お酒には強いし、ナンパ除けにもなってくれるし、飲み仲間としては最高よね〜」
「……酒は嫌いではないが、酔っ払いには付き合いきれん。いい加減、部屋に戻って休んだらどうだ?」
「酔ってないわよぉ、失礼ねぇ」
笑いながら立ち上がった彼女は、座りっ放しで凝った身体をほぐすように 「うぅん――」 と大きく伸びをした。
「だけど今夜は、お言葉に従っておくわ。今せっかく良い気分なのに、雷なんか鳴りだしたら、うるさくて寝付けないものね」
そうして楽しげに、ひらっと片手を振り。
「じゃ、おやすみなさい♪」
ふんふんと鼻唄を歌いながら、軽快な足取りで、酒場を出て行ってしまった。
「…………」
カウンター席に残されたシーヴァスは、やれやれと溜息をつきながら、
(静かになったことだし、呑み直すか)
グラスに目をやり30分ほど思案していたが、結局、いまいち気乗りせずに席を立った。
どうも何か、ちりちりと意識の隅に引っ掛かる。
胸焼けに似た不快感が、さっき無理に飲み込んだ酒の所為か、ナーサディアから問われたことにガラにもなく動揺しているのか――それすら定かでなく。
思ったより酔いが回っているのは、自分の方なのかもしれない。
(……寝よう)
部屋へと続く階段を上がる途中――明かり取りの小窓から、わずかに暗い空が見えた。
たちこめる黒雲。
遠い、稲光。
今夜は嵐になりそうだった。
「…………?」
それから数時間、うとうとしていたのか熟睡していたのか――不意に目が覚めたとき、辺りは、まだ真っ暗だった。
天気が悪いという点を考慮しても、間違いなく夜中だろう。
外は相変わらず突風が吹き荒れているらしく、窓枠がガタガタと揺れている……物音に起こされたのかもしれない。手探りでランプをつけ、時計の針を確かめてみれば、深夜二時を回ったところだった。
すっかり眠気は飛んでしまい、再び横になっても寝つけそうにない。
こんな深夜では酒場も閉まっているだろうし、そもそも呑みたい訳ではない――ヨーストの屋敷にいれば本でも読んで過ごすところだが、ここでは、暇潰しになりそうなモノさえ見当たらず。
どうしたものかと考え込んでいたところ、唐突に、気分の悪さを自覚した。
就寝前に感じていた胸焼けが、治まるどころか悪化している? 吐き気とは違う、寒気というより、これは……?
「!」
脳裏に一瞬浮かんだ情景は、今まで戦ってきた、どの “敵” と遭遇した場面だったか――残影はすぐさま霧散して、しかし――それを現す言葉を引き出すには、寝起きの頭でも事足りた。
「魔族……堕天使か!?」
カーテンを引き、雨戸を開け放つ。
雨粒とともに突風が吹き込んでくるが、この際、かまっていられない――遮るものが無くなると、ボルサの方角に、色濃く漂う嫌な気配がはっきりと感じ取れた。
同時に、モノトーンに染まった視界の中、鮮やかな青が浮かび上がって。
「ジャックハウンド……?」
豪雨を突っ切り、町へ近づいてくる――要らぬトラブルを避ける為にと、人里へ足を踏み入れることを憚っていた神獣が?
シーヴァスは、急ぎ、階下へ向かった。
他の宿泊客を起こさぬよう、裏口から外に出て。暴風に辟易しながら五分と進まぬうちに、こちらの気配を嗅ぎつけたらしいジャックハウンドが駆け寄ってくる。
「シーヴァス殿! なぜ、ここに?」
取るものも取りあえず町まで来たは良いが、どうやってナーサディアを呼び出すが途方に暮れていたんだろう。あきらかにホッとした様子で声をかけてきた。
「クレアに頼まれてな。それよりボルサを覆う、あの空気は――」
「磁場狂い」
ジャックハウンドが、ぎりっ、と犬歯を鳴らす。
「堕天使ベルフェゴールの瘴気だ。まず間違いなく、奴の根城に繋がっているだろう。それから、わずかだが……ラスエル様の気配も感じ取れる」
「よりにもよって、こんな天気の日に――いや、こんな天気だからか?」
神獣の青い毛並みは、ずぶ濡れで。
傘は役に立つまいと羽織ってきた雨用のコートも、あまり長くは持ちそうにない。徒歩で移動していては、戦う前から体力を消耗してしまうだろう。
「……そこで待っていろ! 彼女たちを呼んでくる!!」
目についた物置の陰にジャックハウンドを座らせ、踵を返したシーヴァスは、歯噛みしつつ宿へ引き返した。
就寝中の女性を叩き起こすなど無粋にも程があるが、今回ばかりは、そうも言っていられない――結晶石に念を送りながら、廊下の角を曲がった先に、
「シーヴァス!」
「ナーサディア? 起きていたのか」
戦いの装束に身を包んだ踊り子が、険しい表情で立っていた。
「……嫌な予感がしたの。あなたも?」
「ああ、予感どころか――ジャックハウンドが報せに来たぞ。ラスエル様の匂いがする、と」
自分の部屋へ入り、クリスタルソードを携えて。
覚悟はしていたんだろうが、それでも動揺を隠せずにいるナーサディアを、真っ向から見据えて告げる。
「堕天使ベルフェゴールが、お出ましのようだ」
ナーサにかかればシーヴァスなんて、ボーヤ扱いに違いないですよ。
そんでもってベルフェゴール戦突入ー……ナーサディア、ごめんよ。