◆ 嵐の夜(2)
豪雨吹き付ける、宿の裏手――
本来ならば、互いの顔すらまともに見えず、うねる暴風に話し声も掻き消されてしまうだろう悪天候だったが、
「それじゃあ……今から、転移しますけど」
ティセナを中心にして輪を描くように立った、クレアたちの周囲だけは燐光に包まれ、嵐の影響から切り離されていた。
「先に言っておきます。ボルサの奥地に渦巻いている瘴気を、私が相殺できなくなった瞬間に弾かれて――放り出される場所、どんな魔物が徘徊しているかは、探る時間の余裕も手立てもありません」
「溶岩の海や底なし沼の類じゃなければ、飛べない私やジャックでも、なんとかなるでしょ」
向かい合わせに少女を見つめ返す、ナーサディアの表情は、
「だけど魔界に繋がっていたら、どうしても不利になるわね。神の眷属にとっては毒になる空気だって聞いたことがあるわ」
務めて平静を装っているものの、やはり不自然に強ばり、内心の緊張や焦燥は隠し切れていなかった。
「時空の歪みが、そこまで悪化しているとは考えたくありませんけど……」
そんな女勇者に応じて、クレアは歯噛みする。
今から向かう地には、ベルフェゴールが――おそらく兄を人質に取り、至るところに配下のモンスターを配備して待ち構えているだろう。
以前は、狂い月などで磁場が乱れても、入り込んでくる魔物の脅威はたかが知れていたのに……少しずつ生じていた亀裂が、とうとう、イウヴァートを始めとして堕天使が通り抜けられるほどになってしまった。
境界線がズタズタに崩れ落ちてしまったなら、今頃、押し寄せてきた魔族によってインフォス全土がパニックに陥っているはず。そういった兆候は見受けられないから、ベルフェゴールが通り抜けてきた “抜け穴” は一時的なもので、すでに閉じている可能性の方が高い――混乱度が下がり切らない要因だったファンガムのクーデターも、ようやく収まったことだし。
けれど、そろそろ星の寿命に、タイムリミットが近づいているという現実に変わりはあるまい。
「どちらにせよ人間にとっても猛毒に等しいです。魔界の空気はもちろん、堕天使が撒き散らす瘴気だけでも……防御結界を張り続けていないと危険ですから、傍から離れないでくださいね」
クレアが念を押すと、勇者たちは小さく頷いた。
「しかし、全員そろって最奥部へ向かうのも危険ではないだろうか? こちらへ攻め込んで来ようとはせず、ボルサへ誘うかのように瘴気を匂わせてきたんだ――十中八九、なんらかの罠を張っているだろう」
ジャックハウンドの懸念には、ティセナが肩を竦め。
「正々堂々真っ向勝負を、なんて考えているとは思えないしね」
「我々が戦っている間に、カノーアが襲撃されては事だな。かなりの軍勢がファンガムに赴いたまま……ヴォーラス騎士団も、今はレイヴの部隊を欠いている。いくらヘブロンの守りが強固でも、高位魔族の群れに襲われてはひとたまりも無いぞ」
シーヴァスの指摘に、ナーサディアが眉を顰め。
「それがベルフェゴールの目的だとしたら、最低でも、誰か一人は “外” を見張っていなきゃマズイわね」
「ファンガムで発生したクーデターの黒幕だった堕天使、アポルオンも取り逃がしたまま。しかもインフォスへの侵入を断念してはいないようですしね」
「それでも――私は、行くわよ。ラスエルのところに」
ティセナの呟きに、たまらずといった勢いで声を上げた。
「ここに残れなんて命令は、聞けないわ」
「私もよ!」
「私もだ」
間髪入れず続けたクレアの主張は、見事なまでに神獣とだぶり、
「分かってますよ、それは。気掛かりを抱えたままじゃ戦闘に集中できないどころか、敵に、付け入る隙をくれてやるようなものでしょう」
そうした反応を予想していたらしい、ティセナは、あっさり了承して返す。
「ラスエル様が囚われている場所へ迷わず進むには、ジャックハウンドの嗅覚が必要になりますし……敵が化けて出てくれば、正体を暴くには浄化魔法を浴びせるしかありませんから。落ちた地点に私が残って、ベルフェゴールの瘴気が、これ以上、インフォスへ漏れ出さないよう封じ込めると同時に、異常発生時の対処に当たります」
「私は、どうすればいい? アポルオンが仕掛けてくると想定して、カノーア市街に留まるか」
「いえ。ヘブロンの警備に戻りたいといった希望が無ければ、ボルサに同行してください」
「それはかまわんが――万が一の場合はどうする? 君は残っても、インフォスの生物に手を出せないんだろう? 敵の手駒が魔族とは限らんぞ」
「アーシェたちには異変を伝えて来ました。レイヴ様が隊を率いて、ヘブロンへの帰路についているはずです」
急に激しく明滅し始めた結晶石に急かされるように、ヴォーラス騎士団長の傍らを辞して。
『事件なの!? ミリアスの国で?』
『ええ、すみません……復興作業も手伝えなくて』
『いいのよ。そこまで、あなたたちに甘えていられないわ』
アーシェの私室を訪ねて告げれば、戴冠式の日取りも決まったばかりの少女は 『気をつけてね』 と、心配そうに送り出してくれたのだけれど。
「それに竜の谷へ、ローザを遣いに出しましたから」
「ジャックハウンド救出に手を貸したという、青年か? かなりの手錬だと噂は聞いているが――」
納得した様子のシーヴァスを横目に、クレアは、ここへ来る前の会話を思い出す。
『デュミナスだって必ず安全という訳ではないでしょう? リュドラルさんたちに迷惑かけるより、シーヴァスに残ってもらった方が良いんじゃないかしら? もう、カノーアに着いてるみたいだし……』
『それが少し、気になるんですよ』
『どういうこと?』
『私たちがファンガムに気を取られているうちに、ナーサディアを誘き出せば、二人がかりで援護に付くなんて出来なかった。堕天使にしてみれば、その方が都合が良いはずなのに――クーデターが鎮圧された今になって、ボルサの異変でしょう?』
それはそうだ。
ティセナの参戦は特に、敵にとって脅威だろう。
戦力は分散させてしまった方が、命を狙う側には楽なはず。
『シーヴァス様が、まだ船旅の途中ならともかく。ナーサディアと合流していれば、なおさら後を託して行きやすくなる』
彼女の言わんとするところが掴めず、クレアは眉根を寄せた。
『私とティセがいない隙に、他の勇者たちを狙おうとしてるってこと? それなら、ファンガムが混乱している間に攻撃されていたと思うけど』
滞在先がタンブールであれば、フィアナと共に戦える。
そういった意味では彼を一人に出来るだろう、けれど。ずっと単独行動しているグリフィンが、何事も無く過ごしていることを考えれば、辻褄が合わない。
『アーシェが、ステレンスに敗れると……クーデターが成功する前提でいたんじゃないかしら? それで混乱が増したインフォスに攻め込もうと思っていたのに、失敗したから、カノーア軍やヴォーラス騎士団が帰国しないうちに仕掛けてきたとか』
『それもそうですね。ただ単に、ボルサへ侵入出来るようになったのが、今日だっただけかもしれませんし――』
敵の狙いは、どこにあるのか?
故意と捉えれば確かに不自然で、その意図が読めないぶん薄気味悪かった。
「……じゃあ、行きますよ」
物思いを遮るように、ティセナの声がした、刹那。
景色が一瞬で流れた。
「あ、アドラメレク……!?」
「ヒルジャイアントに、ギガント――どちらも巨人族よ! まともに殴打されたら、骨の一本や二本じゃ済まないわ!」
はっと我に返ったときには鬱蒼とした森の中、蠢くモンスターに囲まれており、勇者たちはそれぞれの武器を抜き放っていた。
「ジャック! 兄様の匂いは……!」
「あの城の――おそらく、地下だ!!」
さっと首を巡らせた神獣が向かった先には、木々よりも高く黒々と聳え立つ影があり。ゴロゴロと響く雷鳴、暗雲を刺すように迸った稲妻が、その全貌を浮かび上がらせる。
以前、この辺りを訪れたときには間違いなく存在しなかった、古城を。
「……くっ!!」
神獣の行く手を遮り、わらわらと暗がりから触手を伸ばしてくる、ブラッドスメルやキングハルシオンといった妖花。鋭い牙に食い千切られても振り払われても、それらには痛覚が無いのか、まるで怯んでいないようだった。
「退いて!」
すかさずティセナが、剣を一閃する。
ジャックハウンドが飛び退いた空間を、紅蓮の炎が、食人花の群れごと焼き払い――そのまま、どぉんという轟音とともに城門を貫いた。高熱で焼き溶かしたのか。
「行け、クレア。ナーサディア! こいつらに足止めされていては、堕天使と戦う前に力尽きるぞ!!」
「でも! ティセは、在来種に手を出せませんし……シーヴァス一人で、この数は」
「ベルフェゴールの瘴気が途絶えれば、ここのモンスターも多少はおとなしくなるだろう!? 凶暴化の原因を叩かなければ、キリが無いぞ!」
アドラメレクよりも巨大な亜人が振り回す棍棒を、一刀両断に斬り飛ばしつつ怒鳴るシーヴァスに促され、
「――ありがとう」
ナーサディアは、躊躇いを振り切るように走りだした。その後を、競うようにジャックハウンドが追っていく。
上空から襲い掛かってきたワイバーンを鞭の一振りで叩き落とした、勇者が苛立たしげに吐き捨てる。
「邪魔よ……!!」
それは初めて耳にする、怒りに荒いだ声だった。
ごめんね、ナーサ (汗)
ラスエル様助けられるルートが、原作にあればなぁ……。