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◆ 雷鳴(1)


 襲い掛かってきたヒドラの頭を、まずはひとつ斬り払い。
 背後から迫り来る気配を横っ飛びに避ければ、シーヴァスを丸呑みにするつもりだったんだろう別の鎌首が、剥き出した牙で空を咬み――勢い止まらず、ドゴッと鈍い音を響かせ地面を抉り取った。

 そうして数秒、動きが鈍った隙を逃さずふたつめを――横から突っ込んできたヤツも斬り飛ばし、四つ首になったヒドラと睨み合う。のたうつ胴体から吹き出す血には毒素が含まれているようで、飛沫を浴びた周辺の草木は、あっという間に腐り落ちてしまった。
(掠っただけで、即死しかねんな……)
 ギラギラと赤く光る眼。
 裂けた口から覗く牙の鋭さも脅威だったが、それ以上に、ぼたぼたと滴る唾液が――やはり毒なのか消化力が凄まじいのか、今も足元の岩を、ジュウッと肉でも焼くように溶かしていく。
 防御魔法に守られているとはいえ、背筋に奔るヒヤリとした緊張は避けられなかった。
 術の効力にも限度があり、すでに二度 “掛け直された” ものである障壁は、敵の攻撃を弾くたび少しずつ色褪せてきている。なにより、天使の魔力も無尽蔵ではない。

 ちらと横目に窺ったティセナは、相も変わらずポーカーフェイスで。
 光刃や吹雪、真空波といった多彩な魔法を駆使しつつ、右腕一本でモンスターを薙ぎ払っている。
 左手は、宙に描いた魔方陣に翳したまま――おそらく、瘴気を押さえ込む為の結界を張っているんだろうが――そこいらの雑魚相手ならまだしも、すでにインフォスに侵入している堕天使の影響を遮断するとなると、かかる負担は計り知れない。
 元々、喜怒哀楽をあまり面に出さない少女だ。
 さほど辛そうに見えないからといって楽観は出来ない。今以上の援護は受けられないという前提で、慎重に戦わなければ身が持たないだろう。
『ボルサ一帯の空間は封鎖しました。私が生きている限り、ベルフェゴールは何処へも逃げ込めません』
 この “中” にいる敵を殲滅すれば、片が付くと。
 魔方陣を完成させた直後にティセナは言ったが、未だ自分たちを包囲している怪物だけでも相当な数だ。
 しかし、城内こそ魔族の巣窟に違いなく――最奥部には、堕天使が待ち構えているだろう。ベルフェゴールとの交戦中に背後から襲われては、勝てる戦いにも勝てなくなる。外を徘徊している敵は一匹たりとも、クレアたちの後を追わせる訳にいかなかった。

(……ふう)

 攻防の末に、ヒドラを地に沈め。
 クリスタルソードで残る敵を牽制しつつ、深呼吸した――とたん、回復魔法が飛んできた。乱れ始めていた息が戻り、疲労感もスッと消える。
 自身も戦いながら、よく勇者の状態にまで気が回るなと感服しつつ眼をやれば、

「おい、ティセナ! だいじょうぶなのか!?」

 稲光が照らす横顔には、幾つもの、ナイフで斬りつけられたような赤い筋。
 まさか天使の障壁を破るほど厄介な魔物がいるのか? 単に、術の切れ目を狙われただけなら良いが……と、驚き問い質すシーヴァスを遮って、
「よそ見しないで、戦闘に集中して――っていうか、話しかけて来ないでください! 四つも五つも同時に魔法を使ってると、さすがに制御するの面倒なんですから!」
 振り向きざま、ギッと睨みつけてくる冷ややかな視線。
「さっさとこいつら片付けて、クレア様のところに行きたいんですよ私は!」
 ……ああ、そうだった。
 喜怒哀楽に乏しいという認識は誤りだ。怒る姿だけは、珍しくもなんともなかったな――

「…………問題無さそうで何よりだ」

 出血具合からして軽傷のようだし、どのみち治癒魔法など使えないシーヴァスには、戦うより他に出来ることも無いが――ここまで来て、いつものごとく突っぱねられるとは思わなかった。
 さっきとは別種の溜息を零しつつ、ふと頭上を掠めた風圧を振り仰ぐ。

 気づけば無数の黒い影がバサバサと、重なり合うように狭い空を覆っていた。
「なっ!? 本……!?」
 コウモリの群れと見紛う形状のそれらは、どう目を眇めてみても書物でしかなかった。奇怪極まる光景に、唖然とするシーヴァスに、
「悪霊が憑いた呪術書か――まったく、鬱陶しいったらありゃしない。まとめて焼きますよ」
 少し離れていてくださいと促したティセナが、紅蓮の炎を放つ。
 敵が羽ばたくたびに轟々と渦巻く旋風とぶつかった、それは鮮やかな爆炎を巻き起こして、森に消炭の雨を降らせた。

×××××


「ジャック! あの角は……?」
「――右だ!」

 薄暗い通路を先導していく神獣と、併走するナーサディア。
 立ち塞がった魔物はことごとく二人によって蹴散らされ、ほとんど足を止めることなく階段を駆け下りて、クレアたちは地下へ奥へと突き進んでいた。
 遭遇する魔族が弱い訳ではない。いずれも高位レベルの敵だった。
 それでも片っ端から打ち倒していける理由は、彼女たちが “知っている” からだろう。
 他の勇者たちであれば初めて戦う相手となるモンスターも、ナーサディアとジャックハウンドは熟知している――その習性や弱点を、おそらくはクレアよりもずっと詳しく――ラスエルと共に戦った、実体験を基として。
 お互いが傍らに在り、倒しに向かう堕天使はベルフェゴール。
 もしかしたら今の状況が、百年を越える時に埋もれかけていた記憶を、連鎖的に掘り起こしているのかもしれなかった。

「! ラスエル……?」

 突き当たった壁には鉄格子の扉。
 駆け寄っていったナーサディアが、床に跪くようにして中を覗きこむ。
「うっ……ナーサ?」
 暗がりにうずくまる人影が身じろいだ。
「ラスエル!!」
 涙目で呼びかける勇者の、一歩後ろ。辺りを警戒するように首を巡らせていた神獣も、
「ラスエル様、よくぞ御無事で――」
「ジャックも一緒なのか……ありがとう。守ってくれていたんだね、約束を……彼女を、僕の代わりに……」
 返って来た言葉にすっかり安堵したらしく、甘えるように鼻を鳴らす。
「……クレアも、すっかり大きくなったね」
 懐かしい声に名を呼ばれ、目を凝らしてみた牢の奥には――少し大人びたようだけれども記憶とあまり変わらない、兄の姿。
 青い長髪、白い翼。
 優しい、けれど少し寂しげな微笑。
「天界では、あれから何年経ったのかな……?」
「兄様……私、もう、19歳ですよ」
 感慨深げに頷くラスエルは、監禁生活が長かった為だろう。顔色も蒼く痩せ細っていて――早急に清浄な場所へ移っての、静養が必要と思われた。
「とにかく、ここを出ましょう!」
「しかしベルフェゴールは何処にいるんだ? ここは奴の領域だ。我々の侵入に気づいていないとは思えない……なぜ、攻撃どころか姿を現しもしない?」
 神獣の疑問には、ラスエルが緩く首を振る。
「分からない。さっきまで、ここにいて――今からナーサを殺すと嗤っていたんだ。けど急に、なんだこの桁違いの魔力は、大天使が直接仕掛けてきたのかと慌てて、どこかへ消えてしまった」
「たぶん、ティセ……私の補佐に付いてくれている子なんですけど。彼女の気配を誤解したんだと思います。天界軍の戦士で、とても強い力の持ち主ですから」
「……そうか。ガブリエル様が来てくださったのか、なんて、つい考えてしまったけれど……職務放棄した挙句に敵の手に堕ちた、愚かな部下の面倒なんて、見ていられる訳がないね」
「そんなふうに言わないで、ラスエル! あいつらに捕まってしまったのは、私を助けようとしてくれたからでしょう!? 今度こそベルフェゴールを倒して、インフォスを平和にして、一緒にこの星で生きましょう!」
 ナーサディアが、しがみついた鉄格子をガチャガチャと揺さぶり。
「待ってて、今ここを開けるから――」
「よせ、ナーサディア。指を痛めるぞ」
 彼女を制止したジャックハウンドは、邪魔な扉に体当たりを食らわせ始めた。

 ベルフェゴールが待ち構えていると想像していただけに、敵の不在は好都合だった。
 衰弱したラスエルを庇いながら、堕天使と戦うなんて危険すぎる。非効率でもいったん引き返し、ティセナに託して――そこまで考え、クレアは首をひねる。
(…………?)
 兄は、言わば人質のはず。
 ラスエルを盾にされたら、ナーサディアやジャックは――きっと自分も手を出せないだろう。
 ティセナを大天使と勘違いして、策を講じているにろ外へ向かったにしろ。人質は連れて行くか、見張りをつけるくらいしそうなものなのに。
“敵が化けて出てくれば、正体を暴くには浄化魔法を浴びせるしかありませんから”
 ティセナは、そう言っていた。
 だから私がナーサディアたちの援護に付いたのに、こんなに、あっさり助け出せるものだろうか……?

 なんとなく釈然とせず、牢に囚われた兄を見つめる。
 鎖に繋がれた手首、昔の面影を残しながらも憔悴しきった姿。
 以前ナーサディアから聞いていた話とは違う、白い翼。やつれてこそいるものの、悪魔の羽なんか生えていない、天使の――ごく自然な。
 まるで自分たちの、こうであってほしいという願望が具現化したような……だけど。

「ナーサディア! ジャック! 牢屋から離れてっ!!」

 唐突に怒鳴られた二人は、ぽかんとこっちを見返してくる。
「そこにいるのは、兄様じゃないわ!」
 叫びは途中から掻き消されて、勇者たちの耳に届かなかったかもしれない。
 “ラスエル” と自分たちを隔てていた鉄格子をぶち破って雷撃が迸り、薄闇に慣れつつあった視界を焼く――防御魔法の発動は間一髪だった。
 バチバチと渦巻く稲妻に押されながらも、どうにか、勇者と神獣は雷の直撃を免れていた。
「ラスエル……!?」
 二人は呆然と、なにがなんだか分からないといった様子で、たちこめる黒煙の先を見つめている。
「無事でいて、ほしかったけど――」
 天界の時流で、十年も。
 インフォスにおいては百年以上も。魔界の空気に曝され続けていたに違いない、ラスエルが。
「無事で済んでるはずが、無いんです」
 囚われた兄を、先に見つけるか。彼に化けたベルフェゴールと遭遇するか。
 どちらにしても本物か否かの確信を得るには、浄化魔法を浴びせるより他に無かった。本来ならば。
「ナーサディアに、森で接触してきた “ラスエル” の姿が、自然なんですよ……兄様は瘴気に耐性なんか無い、下級天使だったんですから」
 異端天使と呼ばれるティセナたちが生まれ持った、抵抗力。
 自分たちに、それは無い。
 防御結界を張り続ける気力が尽きた時点で、天使としての寿命は尽きたも同じこと。
 侵蝕が始まっても魔界から逃れられず、適切な治療を受けられなければ――あとは、いつまで自我を保てるか。
「翼が白いままでいるなんて、有り得ません」
「……あ」
 振り向いたナーサディアの顔から、血の気が引いた。
「…………くっ、くくく……!!」
 壊れた牢の奥、ゆらりと立ち上がった人影の翼が、めきめきと軋んだ音をたて変形していく。

「……三人そろって素直に騙されていれば、すぐに “愛しのラスエル” に会えたろうになぁ?」

 よく知る声で紡がれた、嘲りの台詞。
 低く身構えたジャックハウンドが、歯軋りするように唸った。



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ティセナは、堕天使側の手に落ちた時点で、ラスエル救出は不可能だと思ってて。クレアやナーサは、薄々解っているけど認めたくないというか、考えないようにしてる感じですかね。