◆ 心の在り処(2)
あと三日もあればヨーストに着くだろうという、波の穏やかな夜だった。
「こんばんは」
「!?」
月明かりに照らされたリメール海を、西寄りへ北上していく船の甲板に――天使が降りてきたのは。
「…………君か……」
物思いに耽っていた所為か、まるで気づかなかった。
これまで、彼女たちや妖精が近づいてくるときは、気配めいたものを感じることが多かったんだが――
「よく、ここだと判ったな」
柵を飛び越えれば深く暗い海の底、逃げ場は無い。
元より、天の御遣い相手に、行方を眩ませると考えていた訳でもなかった。むしろクヴァールの何処かにいるものと考え、今までヘブロンへ向かう航路など調べていなかったんだとすれば……それなりに信用されていたということか?
―― “勇者として” は。
「元々、あなた以外の資質者は、インフォス全土に点在していたところをシェリーとローザが見つけ出したんです」
久しぶりに会うティセナは、相変わらずの素っ気ない口調で答えた。
「死ぬか、堕天使の領域に引きずり込まれでもしてない限り、多少手間取っても探すことは出来ますよ」
「……それで?」
手摺りに頬杖をついたまま、シーヴァスは先をうながす。
「用件はなんだ。また依頼か?」
「いいえ」
見つかれば間違いなく面詰されるだろうと思っていたが、予想に反して、天使の態度は淡々としていた。
いや、むしろ――冷ややかと言うべきか。
「天界には、勇者の現在地を示す地図があって。色違いのダガー……まあ、ボードゲームの駒みたいなモノですが」
――駒。
それがどうしたと一蹴してしまえば良かったはずの言葉が、あれから何十日と過ぎても、引っ掛かった棘のように意識から離れず。
「クレア様があなたに渡した “水の石” と連動している、それが粉々に砕けていたんですよね」
うだるような暑さ、夕暮れに紅く染まる視界。
平和、利用、両親――他の乗客たちが交わす、まるで関わりの無い会話に。ただ同じ単語が聞こえただけで――そんな些細な刺激で。
「結晶石に蓄積されていた魔力が尽きたのでなければ。あなたが我々の干渉を拒んでいる、という解釈になるので」
出口が見えない思考の渦に、囚われる。
「訪問拒否の理由と。今後、どうするおつもりかを伺いに」
「悪いが、今は……」
ティセナの話も、乾いた喉から絞り出した己の声さえ、ひどく遠く聴こえた。
「どんな依頼も、受ける気にはなれない」
「なぜ?」
アイスグリーンの眼差しに耐え切れず、シーヴァスは、無意識に視線を逸らす。
「……勇者として戦う意味が、分からなくなってな」
ただ、どう表現するかの違いだけで、駒と呼ぶなら全てがそうだ。
敵に勝つための戦力。
天使と関わる前から、ヘブロン騎士の称号を持つ時点でそうだったはず。
堕天使に与していた魔物、しかも両親を殺した仇になにを言われようと、気に病む方が馬鹿らしいと――頭では解っているのに、何故だろう? 感情が追いつかない。
「少し、考えさせてくれ」
朧月夜。
幽かに響く、細波の音。
「 “少し” って……いつまでですか?」
静まり返った甲板に立つ、天使の翼はひどく無機質な白だった。
「そのうち、答えが出るまで? いつか、いつかと言いながら、仮定の話を現実にしてみせたヒトを私は知りません」
以前もどこかで同じことを思った――あれは、なんの任務の途中だったか。
「いつ戻って来るかも分からない人間をアテには出来ないし、悠長に待っている時間の余裕もありません」
野宿した森の中か、ヴォーラスの街角か。
「あなたの居場所を突き止めるのに二ヶ月近くかかりました。インフォスの時流で、ですけどね……三日そこらや一週間くらいならともかく、何ヶ月も考えてダメなら、一生考えてたって解りっこありませんよ」
――ああ、思い出した。
「戦いを無理強いすることは、誰にも出来ません」
確か英霊祭の夜に、庭園で。
まだ彼女たちと知り合って一年経つか、経たないかという時期で。
「キッカケや理由は他人が与えてくれるものだとしても、結局のところ、物事に対する答えは自分で出すしかないんです」
なにが悪かったのかティセナには、昔から毛嫌いされていて。
それは今でも、たいして変わってないか……
「戦うか戦わないか、どちらにも決めないか。決めないなら、それは何もしないと同義です―― “戦う意味” なんて、降って湧くモノじゃあるまいし」
現に少女は、あの頃とまるっきり同じ、不機嫌を押し殺したような眼をしている。
「なにより、もう戦局は終盤を迎えているんです。グリフィン……ソルダムで共闘した勇者を、覚えていますか? 彼は堕天使イウヴァートを撃破、仇敵とも、きっちり片をつけましたよ。みんな、それぞれ戦い抜く覚悟を決めている」
グリフィンか、懐かしい名前だ。
いつの間に――そんな戦果を上げていたのか。
引き合わされた当初は、盗賊を勇者になど選んだクレアたちの正気を疑ったものだが、妖精の目は確かだったわけだな。
レイヴは騎士団を率い、ヘブロンの護りを固めると同時にリーガルを探しているだろう。
アーシェ殿も祖国奪還のため、カノーアに集った諸侯を取り纏めているに違いない。
フィアナ・エクリーヤは……今も教会の、タンブールの復興作業に駆け回っているだろうか?
ナーサディアを、前世紀の姿のままに留めている魔法の謎は――ラスエルの行方は、未だ判らず終いなのか――あの話も、いつ聞き知ったことだったか。
……皆、一刻も惜しいだろうに。
自分だけが、こんなところで無為に時間を潰している。
「インフォスを堕天使の侵略から守る――それ以外に、なんの理由が必要だって言うんです?」
失望するなら、すれば良い。気が済むまで詰って帰ってくれと。
ぼんやりと回想に浸りつつ、ジルベールの小言攻めに対する要領で、ティセナの話も半分聞き流していたシーヴァスの意識は、
「なんにせよ、戦い続ける意志が無い人間を、勇者にしておくことは出来ませんから」
天使が続けて言い放った台詞によって、一気に現実へ引き戻された。
「天界や魔族に関する記憶は、すべて消させてもらいます」
「……なんだって?」
「あなたの記憶を抹消しに来たと言ってるんです。異界に対する恐怖や不安、そういった負の感情も少なからず、綻びを広げる要因になりますから」
説明を加え繰り返した、ティセナは、おもむろに一歩こちらへ踏み出してきた。
「べつに、どうってことありませんよ。世界に対する認識が、あの夜――クレア様と出会う前に戻るだけです」
そうして、まだ少年めいて細い腕を伸ばす。
「インフォスが魔族に狙われさえしなければ、最初から有り得なかったもの。知る必要も無かったこと。もう戦わないなら忘れてしまった方が、心置きなく日常生活に戻れて楽でしょう?」
記憶を、消す?
なにもかも、すべて……無かったことに?
「――触るな!!」
漠然とした恐怖に駆られたシーヴァスは、反射的に、抜き放った剣を少女に突きつけていた。
「……それで、どうするつもりなんです?」
クリスタルソードの切っ先を、目の前にしても。
「天界の武器なら、もちろん天使だって斬れますけど。不意打ちで首を刎ねるくらいでなきゃ、私は殺せませんよ」
ティセナは、わずかに瞳を瞠っただけで。薄笑みを浮かべて肩をすくめる。
「ま、消されると聞いてハイどうぞと応じる人間も稀でしょうけどね」
咄嗟に動いてしまった、斬りつける気など無かったとはいえ。非武装の少女に剣を向けるとは――
(いったい、なにをやっているんだ……私は?)
剣の柄を握ったまま、ますますうろたえ硬直しているシーヴァスを、心底呆れたように見やり、
「どうぞご勝手に。どのみち遠からず、残された時も尽きる」
眼前で小刻みに揺れる白刃を、片手で摘んだティセナは――無造作に、虫でも追うように振り払い。
「堕天使との争いにケリがつけば、大天使自ら “後始末” に来るでしょう。歪んだ記憶は消さなきゃならない……それが決まりですから」
小さく溜息をついて、去り際に呟いた。
「さようなら」
そうして最初から幻だったかのように、一瞬にして、夜更けの船上から掻き消えた。
後のイベントで、忘れるのが怖いと語っていたシーヴァスには、けっこう酷な話だなぁ……と思います。ノーマルEDのガブリエル様の台詞聞くと、約10年分の記憶丸ごと消されちゃうみたいですし。