◆ ヤドリギ(2)
聖アザリア宮の主を訪ね、執務室の扉を開け放ったときに、カーマインレッドの法衣姿がすぐさま視界に飛び込んでくることは、稀である。
天界上層部を執りまとめる大天使ゆえ、あちこち飛び回っているから――ではなく、ただ単に、暇さえあれば奥の書庫で、どっさり積み上がった古書に埋もれているからだ。
呼んでも応答がない場合。
宮仕えの上級天使たちは、留守もしくは取り込み中と判断して、出直すことがほとんどのようだ。
しかしながら、調べ物に熱中するあまり外の音が聴こえていないだけと知っており、さらに相手と同等以上の地位にあるミカエルには、遠慮してやる理由がない。
「おい、ラファエル!」
書庫へ続く扉を、蹴り開けると。本の壁の向こう側からぼこっと間抜けな音がして、その一角がばらばらと崩れ落ちた。
遮るものが無くなった埃っぽい空間に、ゆらり現れた筒状の帽子――もとい、黒髪の天使は、
「ミカエル? どうしました」
ずり落ちた眼鏡をかけ直しつつ、訝しげに眉をひそめた。
「どうしました、じゃない」
大股で、床に散らばった本の隙間を歩いていって、携えていた書類を放り渡す。
「届け物だ。俺は、そろそろ仕事に戻らなきゃならんからな」
「……また、なにか不測の事態でも? あなたの直轄部隊は、明日まで休養の予定だったでしょう」
さっと青褪めたラファエルに、苦笑して返す。
「バカ言え。もう、その当日だぞ」
「は?」
「どうせまた、時計も見ずに完徹したんだろ? 凝り性も、たいがいにしとけよ……おまえが睡眠不足でぶっ倒れても、優しく起こしてくれるようなヤツはいないんだからな」
自分以外に、書庫の扉を蹴り開けそうな人物と言えば。
本の雪崩に潰されている男に、冷たい一瞥をくれてその場を去りそうな娘と。
尖った靴の踵で腹を踏みつけ、高笑いと罵声を浴びせるであろう娘の、二人くらいだ。
「ああ、すみません。つい、癖で」
ラファエルは、ごまかすように笑うと書類に目を落とした。
ごちゃごちゃと定型文に埋め尽くされてはいるが、結局のところ。
部下であるティセナ・バーデュアの所属を、ラファエル管理下のアルカヤ守護天使として、一時的に移す――という主旨のことが書き連ねてある最下段に、ミカエルが捺印しただけ。所要時間、約三秒のやっつけ仕事である。
「言っとくが、軍部も人手不足なんだ。さっさと返せよ」
「……バーデュアは優秀です。我々四大天使を凌ぐほどの剣技、魔力に加えて、ここ五年間における地上界守護の実績を持つ」
そして、さらなる決定打。
個人差はあれど、地上において 『異邦人』 に過ぎぬ天使の身でありながら、彼女とアルカヤの同調率は100%を越えていた。
かつてインフォスを守護したクレア・ユールティーズでさえ、その数値は80%程度に留まったというのに。
「任務に関しては、私が口を挟む必要もないでしょう――混乱の芽を摘み、魔族の狙いであろう “天竜” 復活を阻止するには、彼女を遣わすのが最善の手立てです」
「アルカヤの歴史における汚点を、秘密裏に抹消し、おそらく関わっているだろう異端天使たちも処分するには、だろ?」
「ミカエル……」
歯に衣着せぬ物言いに、ラファエルは顔をしかめた。
だが上層部が口を揃えて提言した、その案を最終的に採ったのは、紛れもなくこの男だ。
アルカヤ守護に適した人材なら、もう一人いた。
適性・実力もさることながら――今は伝説と化している、天竜と魔石を巡る戦いのすべてを知る者が。
だが、そいつは頑なに動かず、かつて護った世界から目を逸らす。
ミカエルが、いくら大天使長と呼ばれる立場にあっても、天界全体の意思に、個人感情で難癖をつける訳にはいかない。大義名分のもと、ティセナが厄介事の後始末に駆り出されるのも、今に始まったことではない。
ただ今回ばかりは、予想される敵の一派に問題があった。
「……失踪した者たちと、アルカヤの異変を結びつける要素は、まだ何もありません」
実務的な口調で、ラファエルは言う。
「なにより、スルトの皇子は十年も前に戦死している――彼の最期は、あなたの方がよく知っているでしょう。ミカエル」
それはそうだ。
青年が死に、消滅する瞬間は、自分やティセナを含めた複数の天使が看取っている。
「まあ、肝心の目撃者が、あの泣き虫お嬢ちゃん一人だけではな」
アリシェス・マルベリー。
脆弱な精神に、不釣合いな魔力を秘めた巻き毛の少女。
約二ヶ月前。騒ぎの渦中に居合わせながら、天界に留まったのは彼女だけだ。
気丈にも誘いを拒絶したのか、敵方にも扱いにくい “力” と映り、そのため引き込まれなかったのかは定かでないが、
「錯乱して、見間違えたと考えるのが妥当でしょう。クオイツたちに堕天を唆した、黒翼の侵入者が……死んだはずの、キース・アスラウドだなどと」
もしくは敵が姿を偽っていたかだな、とミカエルは黙考した。
だが、堕天したとされる数十人のうち――ゼファー・クオイツ。ゆくゆくはティセナの補佐として軍部に配属されるはずだった、あの理知的な青年が、天界に見切りをつけたとすれば。
それこそキース生還に匹敵するような、なんらかの引き金があったはずだ。
「ごく僅かな時間とはいえ、幾重もの結界を破り、追っ手を返り討ちにして逃げおおせるほどの高位魔族です。彼らが関わっているにせよ、いないにせよ……太刀打ちできるのは、やはりバーデュアだけでしょう」
軍務から帰還してみれば、寝耳に水の失踪事件。
間を置かずして、アルカヤの異変。
それらを無関係と捉えるほど、ティセナは能天気なタチではない。上層部の意図もすべて察しているだろう。
ラファエルは、それすら前提に、彼女らを地上へ向かわせた。
清浄を尊び、知性と博愛に満ち、魔に堕ちたものを容赦なく切り捨ててる――頭の固い連中が描く、理想の大天使だ。
水晶球に映し出される鮮やかな世界を、一喜一憂しつつ見守っていた少年の面影は、どこにもない。
「俺は、昔のおまえの方が好きだったぜ」
揶揄に、応えは無かった。
元より、たいして期待してもいなかったが。
……さて、そろそろ時間だ。
地上に不穏な動きがあるからこそ、天の領域を守り抜かねばならない。片腕と呼べる存在のティセナが、しばらく軍を抜けるからには、隊の編成も見直す必要があるだろう。
思考を切り替え、踵を返したミカエルの背後で、書庫の扉は音もなく閉まった。
ラファエル様。なんとなく……人前では几帳面に振る舞っていても、プライベートになるとずぼらで、私室は散らかっていそうなイメージがあります。