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◆ いなくなったウェスタ(2)


 夕食後に息をつく暇もなく、ケーキと紅茶が出てきた。
 白いクロスに彩られたダイニングテーブルは、椅子がひとつ増えてもまだ余裕があるくらい大きかった。
 末っ子らしい少年が楽しそうにウェスタとはしゃぐ中、前後左右をぐるっと囲まれて――とりとめもなく続いた世間話に、ちゃんと笑って相槌を打てていたかどうか、正直、自信はない。
 おおらかな六人家族は、アイリーンを、単におとなしい娘と思ったようで。ぎこちない動作や、口数の少なさに気を悪くした様子はなかったけれど。

「なあ……どうしたんだ、さっきから」

 すぐにお風呂を沸かすから待っててねと、来客用の寝室へ通されて、ようやく滞空していた天使が口を開いた。
「メシも無理につめこんでる感じだったし、顔色悪いぞ。食物アレルギーってやつか?」
「ううん。美味しかったとは、思うんだけど」
 勧められた料理の半分も喉を通らなかった。
 普段、自炊はするけど、シチューを一人ぶんなんて面倒だし余ってしまうから、作らない。子供の頃は大好きだったメニューで、ずいぶん久しぶりに食べたのに。
「……よく分かんない、もう行くわ」
「ああ、寝るのか? お疲れさん――って、なにやってんだ、おまえ!」
 窓際へ歩いていって、ベランダの柵によじ登り始めたアイリーンを見とめ、天使は目を剥いた。
「先を急ぐのよ」
「はぁ?」
「ダメだ、飛び移れる木がないや」
 理由を挙げればキリがないから、話すのも億劫で、とりあえず呆気に取られてるルシードは無視。
 部屋中を探してみたが、梯子代わりになりそうな道具は見当たらず。ひどく偏った自分の習得魔法を、いまさらに後悔した。
「コントロールが難しいから苦手だったけど、移動系も覚えとけば良かった……抑えめに風使ったら、なんとか降りられるかな」
 突風に弾き飛ばされたって、擦り傷か打撲くらいで済むだろう。問題は、住人に見咎められたりしないかで。
「ねえ。下に誰もいないか、確認してきてくれない?」
「嫌だ」
 勇者のささやかな願いを、ルシードは仏頂面で一蹴した。
「依頼は片付いてるのに、そうまでして急ぐ理由がさっぱり分からん。ここを出たら、また宿を探さなきゃだろう」
 人間界の慣習には疎い天使のくせして、やたら尤もな台詞を並べ立てる。
「タダ飯に風呂付き、親切で泊めてくれるってんだぞ? なにが気に入らないんだよ。だいたい、家に上げた女の子がいきなり消えてたら心配するだろうが。不満があるなら、ちゃんと言え」
「……そんなの、ないよ」
 アイリーンは、ぼそっと答える。

 ただ、嫌だっただけ。

 昔は、おじいちゃんがいて、お姉ちゃんとフェインも一緒だった。
 ここみたいな大家族じゃなかったけど、負けないくらい毎日にぎやかだった、でも――今は塔に帰っても、誰もいない。
 ずっと一人でいたときは、気にしなくて済んだのに。

 だけど、通りすがりの相手に、そんなことを話しても余計に居心地が悪くなるだけだ。

「親切で世話焼いてくれてるんだって――良い人たちだってことくらい、分かるけど。ここには居たくないの」
 アイリーンは、頑なに主張する。
 これでまだ諌めの台詞が返ってくるようなら、天使を放ったらかしに出て行くつもりだったが、
「……ま、嫌だってモンは仕方ねえか」
 じっと据えていた視線を緩めた、ルシードは思いのほかアッサリと引き下がった。
「分かった。その代わり、置手紙くらい残せよ? 言いそびれたけど兄貴と待ち合わせてるから、とかなんとかテキトーに書いとけ」
「うん、そうする」
 拍子抜けながらもホッとして、アイリーンは室内にあった筆記用具を借り、書置きをする。
 末尾に 『ウェスタのこと、本当にありがとうございました。それから、シチュー美味しかったです』 と記して。
「――っと、これでいいかな? じゃ、ルシード。見張り役お願いね」
「そんな、しち面倒なことする必要ねえって」
「え?」
「おまえ、俺がなんなのか忘れてる?」
 魔法の発動体勢に入りかけたところで動きを止めた、アイリーンを、天使は苦笑しつつ手招いた。
「……来な。連れ出してやるよ」

 首をひねりつつ、うながされるまま彼の正面に立ってみる。
 庭は台所の真正面だし、リビングからも花壇が見えていた。
 魔導士ギルドが公的に認められている六王国領内とはいえ、魔力を持つ人間が一般に歓迎されない存在であることに変わりない。目撃されたら、騒ぎは避けられまい。
 なにより、また引き止められたら厄介だ。こっそり気づかれないように出て行きたいんだけど、どうするつもりだろう――じっとルシードを窺っていると。

 呪文を一紡ぎした天使の手元から、生まれた虹色の粒が、ほわんと膨張してアイリーンを包み込んだ。
「え、ええっ!?」
 驚きのあまり、きらきら光る球体の底に尻もちをついたまま、視線を泳がせていると。
「おまえも入ってろ、ウェスタ。まだ、飛ぶのはキツイだろ?」
 ベッドサイドにちょこんと止まっていた愛鳥が、アイリーンの胸元に放り落とされ。最後に 「よっこらせ」 と足を踏み入れた青年があぐらをかく。
 巨大なシャボン玉は、壁をすり抜け重力もなんのその、ニ人と一匹を乗せ軽やかに夜空へ舞い上がっていった。

 ふーわふわと高度を増し、さっきまで居た家が見下ろせるくらいに離れて、やっとアイリーンは我に返った。
「……ちょ、ちょっとルシードっ! あんたはアストラル体だけど、私は違うんだからね? 空飛んでる姿なんか見られたら、どうしてくれるのよ」
「心配すんな。この中に居りゃ、普通の人間には視認できねえから」
 食ってかかられた天使は、どこからともなく取り出した水筒をあおりつつ答えた。
「空飛ぶ結界、ってトコだな――ああ、足元透けてるけど、高いところは平気か?」
「え? うん、それはだいじょうぶ」
 苦手じゃない、むしろ好きだ。ブレメースで塔の最上階に登って、風に吹かれていると心地が良かった。
 他人の目を気にしなくて良いんだと分かったとたん、落ち着いてきたアイリーンは、眼下に広がる情景に興味を移す。
「すっごーい……町がオモチャの模型みたい……」
 ゆっくり、ゆっくり流れていく街並み。
 夜空が近くて、小さくなった家々の灯りも月や星みたいだ――ウェスタやルシードの目に、世界はこんなふうに映っているのか。

 頬を紅潮させ、夜景に魅入っているアイリーンに、満足げな表情の天使が問う。
「――で、どちらに行かれますか? 旅のお嬢さん」
「バーゼル!」
 憂鬱な気分はすでに吹き飛んで。
「アルクマールにね、魔導士ギルド本部があるんだ。調べたいこともあるし、都心の方が情報は集めやすいでしょ」
 だけど空中散歩なんて、滅多に経験できることじゃないから、少しだけワガママを言い足す。
「でも、夜中に押しかけたら迷惑になっちゃうから。朝になって着くように、ゆっくり飛んでね、ルシード」
「はいはい」
 天使は肩をすくめ、彼の意に従ったシャボン玉はふわふわと、アルカヤの夜空を南下していった。



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普通に脱出するだけじゃつまらないので、空中散歩。
気難しいお嬢さんの扱いは、ティセナを相手にそれなりの免疫があるルシードでした。