◆ たゆたう、俤(1)
「いやー、早速、真面目に自主的に事件解決してくださったようで、どうもありがとうございます。勇者様」
訪ねてきたティセナは、茶化した言い回しながらも気の毒そうな眼を向けてきた。
「ものの見事に囮捜査状態だったようで」
「……お役に立てたようでなによりですよ、天使様」
こっちは疲れもあって、溜息混じりに応じる。
ラジェスの海竜退治を終えた後、宣言どおり借金を返しに、リナレス地方のレーンディアにある例の店に立ち寄った、9月3日の夜――宿への帰り道、追いはぎに襲われた。
軍人崩れのゴロツキ3人を引き連れた、盗っ人が物陰から放った矢を避けられる程度の酒量に留めておいたのが幸いし、なんとか返り討ちにして。
街の警備兵を見つけ事後処理を押し付けて、日付もとうに変わってから一眠り。そうして、ついさっき、
『いい加減にしろ……こんな朝っぱらから』
『眠たそうなところ悪いけど、もうとっくに宿の朝食タイムも終わってるよー?』
そんな天使の呼び声に起こされたのだった。
追いはぎどもの噂に関しては、ちょうど妖精が聞きつけ元凶の居所を探していたんだそうで、手間が省けたと礼を言われることになった。
シータスが、事情聴取を盗み聞きしてきたところによると、ツケを払いに現れた場面をたまたま目撃し、まだ大金を持ち歩いているに違いないと思い込んで尾行してきたらしい――残念ながら、支払った残りはスズメの涙だよ。まったく。
「じゃ、とりあえず怪我、治しとくね」
「……ああ」
追いはぎ共にやられた傷は軽いものだったが、それでもあちこち痛むし動きも鈍る。申し出を断る理由も無い。
「なあ、それって自分も治せるのか」
すっかり見慣れた淡緑色の光を、ぼうっと眺めながら、何の気なしに訊ねると、
「へ?」
「だからその――回復魔法で、自分自身をさ」
勇者の利き腕を取ったまま、ティセナは、首をゆるく横に振った。
「治せる天使もいるけど、私はダメね」
「ふーん」
傷を癒す光。細い指先から伝わる、真冬に冷え切った手を、ぬるま湯につけたような心地良さと、安堵感。
僕の場合は魔法って訳じゃないから、回復していく感触も別物なのかもしれないけれど……こんな感じなんだろうか? 治療される側は。
自分自身を癒せない理由は、分からない。歴代の教皇もそうだったらしい。魔導士に、こんな能力を持つ者はいないっていうから、魔法とは違うんだろうが――だったら結局なんなんだろうか、この右手に宿る “力” の根源は?
天使に訊けば、ひょっとしたら、なにか判るのかもしれない……けど、なんとなく嫌だった。
追い出された形とはいえ、せっかく窮屈な教皇庁から離れて、それなりに楽しくやってるっていうのに――次期教皇だと知られるのも、こいつらにまで、この能力をアテにされるようになるのも。
(けど……)
実際に知られたら、彼女は、どうするだろう?
確か出会ったとき “次期教皇” に対して拒否反応を示していた。そういった類の人間とは関わり合いになりたくない、とも。
(アテにされるどころか、勇者をクビになったりしてな)
ふと考え至った、それが笑い事じゃすまないような気もしてきて、ティセナの横顔を窺う。
そもそも天使のクセして、神に仕える人間が嫌って、どういうことだ? まあ、人が思い描くような神の御使いとは随分かけ離れた天使様だけどさ。
(他の地上界にいた勇者が、教会関係者で、ろくでもなかったとか? けど、僕みたいなのを平気で相手にしてるんだし――ああ、案外、清く正しい聖職者に崇められてうんざりした、とか)
泥棒を勇者にしていたくらいだし、そっちの方が、まだ有り得る気がするな、などと一人納得していると、
「なに? まだ、どっか痛む?」
視線に気づいたらしい、ティセナが、ふっとこっちを向いた。
「い、いや。楽になった、ありがとう」
「そう?」
実際に傷は、すっかり治っていた。よし、と頷いて翳していた手を下ろした彼女は、
「あと、これ新しい武器ね。フレイルって種類らしいんだけど――今のメイスより、攻撃力倍増するから」
なにも無い空中から一振りの杖を掴み出した。初めて見たときには我が目を疑ったが、この現象にも、もう慣れた。便利なものだよな。
「なかなかいいな。もらっておくよ」
受け取ったそれを軽く振ったり机を叩いてみたりと、使い勝手を確かめていると、
「……それにしてもロクスって、けっこう強いよね」
ティセナが、なぜか恨めしげな眼をこっちに向けた。
「妖精のサポート抜きで、複数人相手に勝っちゃうなんて。食生活デタラメなのに、けっこう体力あるし。攻撃力なんて、男剣士二人より上だしさ――納得いかないんだけど」
依頼するぶんには安心だけど、と唇を尖らせる。納得いかないって言われてもなぁ。
「教会の人間って、聖書とか読んでるイメージしかないのに……ロクスのとこじゃ、戦闘訓練もするの?」
「いいや、まったく。雇われ警備兵なら、そこかしこにいるけど、僧侶たちの持ってる錫杖はただの飾りだ」
僕の場合は立場が立場だったから、簡単な護身術なら教え込まれたし。歓楽街に入り浸るようになってからは、絡んでくる手合いとケンカになることもあったけど、戦う訓練なんて帝国じゃあるまいし――慈愛だの博愛だの説いている教皇庁で、やるわけない。
「そんなんで、それ? いーよね、男の子って……日課だから特別意識してなかったトレーニングとか、あるんじゃないの?」
「しつこいな――疑ってるなら、一緒に来るか?」
「? どこに」
「教皇庁。顔見知りに出くわしたくないから、一般人が入れる範囲になるけどな。中年太りやビール腹の僧侶が、わらわらいるぞ」
アールスト侵攻を受け、今頃、副教皇や枢機卿たちは対応に大わらわだろう。グローサインを退ける程の武力は、エクレシアには無い。だったら、どうするのか?
「副教皇って人から、戻る許可が出たって訳でもなさそうだけど……どういうこと?」
「近くまで来たしな、ついでだよ。帝国軍を迎え撃つ気か、特使でも送って対話の場を設けるのか――敷地をぶらぶらしていれば、今後の方針の噂くらいは耳に入ってくるだろ」
小首をかしげるティセナに説明しつつ、手荷物をまとめる。お払い箱になったメイスは、道中、どこかの武器屋で売らせてもらおう。
「平日の真っ昼間から聖堂周辺をうろうろしてるのは、女子供かご老人がほとんどだからな。この法衣を脱いで行っても、若い男が一人じゃ目立つ……急ぐ予定が無いなら、人間のフリして付いて来いよ」
カップルを装えば、一般人に紛れられてちょうどいい。
「いいね、それ。エクレシアの出方は、妖精たちも探ってはいるけど――教皇庁で暮らしてたロクスの方が、噂の信憑性も判断しやすいだろうし」
ちょうど手が空いていたのか、ティセナは、あっさり頷くと実体化した。
「おい、ちょっと待て。宿を出てからにしろ! 連れがいたと誤解されたら、追加料金を取られるだろ」
「あ、そっか。ごめんごめん」
そんなこんなで天使を連れて、久しぶりに首都アララスへ足を踏み入れ。
どうせだから昼食も付き合えよ、と手近なレストランに誘い。
「あれ、酒場じゃないの?」
「君は僕を、なんだと思ってるんだ?」
「明るいうちから酒浸りがデフォルトの勇者様」
「あのな……」
そんな会話を経て、窓際のテーブル席に向かい合わせに座ったティセナは上機嫌で、メニューのデザート欄に夢中になっている。
いつだったか酒場で甘ったるいものばかり食べていたから、女の子が好きそうなカフェ系の店を選んだが、どうやら正解だったみたいだ。
「今更だけど――普通に飲食するんだな、君たちは」
チーズはちょっと焦げたところが美味しいよね、だのなんだの言いながら、熱々のグラタンを頬張っているティセナを前に、浮かぶ疑問。
「 “天使の取り分” って言うだろ。あれ、ひょっとして本当に飲んでるのか?」
「下級天使ですら、用が無い限り地上には降りないからねー。それは単に蒸発してるだけだと思うよ。時々は、通りすがりの妖精や精霊が失敬してるかもしれないけど……」
店内には他にも客がちらほらいるが、まだ正午前。会話を聞き咎められない程度の距離はあるから、気が楽だ。
通常、人間には見えない天使が相手だと、なにか気になっても周りの目を憚り、すぐには訊けないことが多い――これも、だいぶ前から引っ掛かっていた小さな謎だった。
「私たちアストラル生命体に必要なのは、同じエネルギー粒子だけど、野菜や果物なんかにも、そこそこ含まれてるんだよ。人間が食べられるものに限らず、自然の物にはね」
「じゃあ……供物の類にも一応、意味はあるのか」
人間の自己満足って訳じゃないんだな。
「天使はともかく、星に根付いた精霊たちなんかには、ちゃんと感謝の気持ち、届いてると思うよ」
サラダのプチトマトを口の中に放り込むと、フォークを指し棒のように軽く振りつつ続ける。
「ロクスたち人間は、体が栄養を摂取してから、連動してる心の方にエネルギーが行き渡るけど。天使は、その気になれば大気中から呼吸と一緒に補給できるから――まあ、食べたり飲んだりって行為は、娯楽の一種ね」
「へえ……」
話が一段落したところに、ウエイトレスが近づいてくる気配がして、どちらからともなく口を噤む。こういう部分の気配りに関して、ティセナは、地上界守護に慣れているというだけあって的確だった。たまにルシードが同行することもあるが、実体化したアイツにうろちょろされると、なにか突拍子もないことを始めやしないかとヒヤヒヤする。それにしても、
「わぁ〜!」
デザートプレートを前にして、アイスグリーンの瞳を輝かせる様は、とても気高い天使様とは思えない。しかも、ひとつに絞れなかったらしく3種盛り合わせと来た。
おまけにドリンクはミックスジュースって――子供味覚だよな、こいつ。
女の子が甘党だというのはモテない男が抱く幻想のようなもので、現実はそう一概に言えない。甘い物好きだとしても10代後半にもなれば、飲み物はハーブティーなり紅茶なり、甘味とのバランスを取るようになるのが普通だ。
「……そんなに好きなら、やるよ。これも」
ランチセットに付いてきた、小さなチョコレートケーキの皿を押しやると、
「いいの?」
「ああ、べつに甘いものは嫌いじゃないけど、そんなに好きでもないからな」
嬉しそうに 「ありがと」 と言って、食べ始める。実に幸せそうな顔で。
「んー、美味しい!」
これだけ喜んでくれりゃ作った方も嬉しいだろう。
しっかし、こうしていると、ただの女の子だよな――華奢だし、とてもじゃないが軍人には見えない。魔法主体で戦うなら、筋力なんかは関係ないのかもしれないけど。
「天界に、菓子の類は無いのか?」
「甘い物? キャンディやケーキくらいはあるけど……」
小首をかしげながら、ティセナは答えた。
「日々変化する人間と違って創意工夫とか向上心、ほとんど無いから。種類は少ないし味もずーっと変わらないし――あっちで食べたいとは思わないな。空気の美味しい森で日光浴してる方が、ずっといいや」
天使が嬉々として、ティラミスだのジェラートだのをパクついてる姿を、教皇庁の石頭たちが見たらなんて言うだろう?
そう考えると少し、可笑しかった。
そうして、ふと教会での生活を思い返す。
食前に、感謝の祈りを捧げるよう教育されて。基本的に皆、同じ時間に食堂に集まって食べるから、面倒でも祈ってはいたけれど……好物が出れば嬉しい、くらいの感想はあっても、ここまで幸せそうな顔して食べてるヤツはいなかったな。
歓楽街に出入りするようになってからは、まあ、笑顔に囲まれてはいたけど――彼女たちは、食事云々より、僕に呑ませるのが仕事だった訳で。昼間に一緒に出歩くことも、それなりにあったけど、デザートひとつではしゃぐほど子供っぽい娘はいなかったし。
これが美味しいだ何だって、そういう会話を食事相手と……今まで、したことが無かった、だろうか?
妙に新鮮な気分ではある、けど皆無ってことは、さすがに――酒場の女たちに関しては――覚えてないな。教皇庁――同世代の子供なんか一人もいなかったし。ああ、もう足腰弱って退職した、料理長のじいさんは構ってくれたか――副教皇も、僕が引き取られたばかりの頃は、好き嫌いを訊いてきたりして。偏食は良くないって、野菜を増やされたっけ? その前は、
“今日はね、ホットケーキ焼いたのよ”
不意に、もう面影もおぼろな母親の姿と声が脳裏を過ぎり、ロクスは顔を顰めた。
余計なことを思い出す原因になった天使は、未だデザートに夢中で、こっちを見てすらいない……舌打ち混じりに口に運んだコーヒーは、やけに苦く感じて、憂鬱な気分はますます下降した。
ロクスの治癒力って、自分が傷ついたときは治せないのかなー? ゲーム中もセルフケア出来ないし、たぶんダメなんだろうけど、それなら初めて天使の回復魔法受けたときって、けっこう感慨深いものがあるんじゃないかと。