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◆ たゆたう、俤(3)


 ラジェスで海水をかぶる羽目になった時もそうだったが、殺気や瘴気を撒き散らす相手と戦ってばかりいると、害意の無い生物や無機物による不意打ちは念頭に無いから、心臓に悪い。

「ご、ごめんなさい、ごめんなさいね、お嬢ちゃん……!」

 さらにゼイゼイと喘ぐ声がして、栗毛の中年女性が駆け寄ってくる。
「こら、シロ! こっちに来なさい」
 取り落としてしまっていたらしいリードを握りながら、嘆息して、
「いったい、どうしたのよ今日は――いつもの散歩コースは無視するし、急に走り出すし――もう、夕飯の買い物して帰るのよ!」
 飼い犬をティセナの背中から引っ張り下ろすが、シロと呼ばれたその子は両足を踏ん張り、その場に留まろうとしているようだ。
「ほら、そこ! ちょうど、八百屋さんあるから! ジャガイモや玉ネギならいつ行っても置いてあるけど、葉物野菜は早く買わないと売り切れちゃうから、ね? 行きましょう?」
 女性が必死に言い聞かせても、犬は黒々した目でティセナを見上げたまま、なにかを訴えるように鳴き続けていた。愛玩動物とはいえ、そこは肉食獣。本気で抵抗されると、特に鍛えている訳でもない女性の力では、腕ずくで連れて行くのも難しいだろう。
「なんなの、もう……」
「あ、あの。私ちょっと知り合いを待ってて、30分くらいここにいるつもりだから」
 がっくり屈み込んでいる女性に声をかける。見知らぬ犬が自分に、なんの用なのかも気になるが。
「私でかまわなければ、この子、しばらく見てますから。その八百屋に行くのと――どこかで、水分補給されて来たらいかがですか? 声、ものすごく掠れてますよ」
 パッと見ただけでも感じ取れる。喉が乾いているというより、もう脱水症状の一歩手前だ。どれだけ、この子に振り回されて走りっぱなしだったんだろう?
「そ、そう? でも、悪いわ。ああ、だけど、ホントに……」
 指摘されて初めて自覚したらしく、喉を押さえながら、女性は立ち上がった。
「じゃあ、お言葉に甘えちゃって良いかしら? 予定は30分なのよね? じゃあ20分以内に戻って来るようにするわね」
 すまなさそうに頭を下げながら、リードを、ベンチの脚に括りつける。
「いえ、時間は気にしないでください。知り合いが先に戻っても一緒に待つか、レストランの席を取りに行っておいてもらいますし」
「あら、デート? 若い子は良いわねぇ」
 冷やかすように微笑まれて、ティセナは苦笑いを返した。
「いや、そういうのじゃないんですけどね」
 まあ、人間界で、自分くらいの外見年齢の娘が言えば、そう解釈されるか――

 まだヨロヨロしている女性の姿が雑踏に消えた後、ティセナは、犬の両脇に手を差し入れ、目の高さに持ち上げた。そうして問いかける。

「さて、と。シロちゃん? 飼い主さん困らせてまで、なにか御用?」
 さすがに犬語は分からないが、生き物には思念がある。人間の傍で暮らしている動物なら比較的、人語に近い形で。伝えたい想いがあるなら感じ取ることは容易い。
“ボクノトモダチハ、ドコ?”
「この世界に犬の知り合いは、いないよ?」
“イヌジャナイヨ、ニンゲンノオトコノコ。ニオイガシタノ、オイカケテキタ”
「男の子? そんな年頃の人間とも、付き合い無いけど」
 アルカヤに降りて出会った人間の中で、男の子と呼べるような歳だったのは……コンラッドの部下、リュカくらいか?
 そういえば同じ場所で、もっと小さな男の子にも遭遇したけれど、ただすれ違っただけ。いくら犬の嗅覚でも、匂いを嗅ぎ取れるほどには――それを言ったらリュカにも、しばらく会っていない。ああそうだ、なにか新しい帝国内部の情報が無いか、そろそろ彼らにも会いに行かないと。
“カエッテクルッテイッテタ、ズットマッテタノ。アイタイノ。マタイッショニアソブンダ”
「そう言われてもねぇ……」
 シロには悪いが心当たりが無い。あったとしても、犬の思念を読み取れるなんて話、普通の人間に信じてもらえるはずもなく、飼い主に断りも無くどこかへ連れて行くことも出来ない――さて、どうしたものかと考えていると、
「なんだ、やっぱり懐かれてるんじゃないか。野良か? そいつ」
 背後から冷やかすような声がした、と思ったら。

「どわっ!?」

 今までおとなしくしていた犬が、急に腕の中から抜け出し、ロクスに飛びかかかった。
 そのまま尻餅をついて倒れた彼の上半身に覆いかぶさるように乗っかったシロは、千切れそうな勢いで尻尾を振りながら、ロクスの顔面を舐め回している。
「なっ、なんだ、こいつ? やめろ犬臭い顔が濡れる……!」
 押し退けようとするロクスの手を掻い潜り、じゃれつくシロ。この、あからさまな反応、どう見ても――
「まさか探してた “男の子” って、ロクスのこと? シロちゃん」
 わん! と一鳴きして振り返ったシロは、嬉しそうにティセナを見上げた。
 そうして再び嬉々として、ロクスに纏わりつき始める。
「……シロ?」
 その名に覚えがあったようで、目を丸くしたロクスは、まじまじと眼前の犬を見つめた。
 それから薄紫色の首輪に目を留め、ふわふわの毛並みを掻き分けると、なにかを注視している。
「なんだよ、おまえ――ヨボヨボじゃないか。デカくなってるし」
 苦笑したロクスは、ふっと遠い目をして。
「ま、そりゃそうか。十年以上……経つんだもんな。僕を覚えてたのか? 嘘だろ」
 胡坐をかいて座り込み、わしわしと犬の背中を撫でてやりながら、半ば呆れたように呟いた。
「しかし、ずいぶん長生きしたな。15――いや、16歳か? 確か、犬の寿命自体そんなもんだろ――完全に爺さんだな。こんなところで会うとはなぁ」
「知ってる子?」
「ああ。昔、僕が……って、ちょっと待て」
 問われて頷いた勇者は、はたと眉根を寄せ、ようやく思い出したようにティセナの方を向いた。
「なんでこいつが、ここにいるんだ? それに、どうして君が名前を知ってる?」
「なんかロクスの匂い嗅いで探してたみたいよ。飼い主さん引き摺ってリードも振り切って、こっちに走って来たの」
 シロは、もうすっかりロクスに夢中だ。
 あーあ。こんなことならさっきのうちに、もっと撫でさせてもらっとくんだった――犬を愛でる機会や暇もそうは無いし、ふかふかで気持ち良かったのに。
「シロちゃん動こうとしないし、飼い主さんはヘトヘトで脱水症状一歩手前、買い物も急いでるみたいだったから……どうせ人を待ってるからって、ちょっと預かりがてら、この子の話、聞いてたんだけど」
「飼い主って――」
「キレイな栗毛の、優しそうなおばちゃんだったよ。買い物したい店は、すぐ近くみたいだったから、もうすぐ戻ってくると思う」
 ティセナは、彼女が向かった方を指しつつ説明した。
「そんな訳だから、この子を返すまで、移動ちょっと待ってね」
「き、君が返しとけ!」
「え?」
 いきなりシロを抱き上げ、こちらの胸元に突きつけたロクスは、早口でまくしたてた。
「僕は用事を思い出した片付けてくる」
「用事って、さっき行って帰って来たばかりなのに……まだ、この辺になにかあるの? それに、この子がロクスを探してたんなら飼い主さんも知り合いでしょ。挨拶くらいしたら?」
「こっ、子供のときに住んでた家の近所の犬だ! 飼い主のことなんか覚えてないし、僕の素行の悪さが故郷でどんな噂されてるかくらい想像つくだろ!」
「うん、まあ」
「適当に戻って来るから、君は、そいつを返してそのままそこにいろ!」
 強引に話を打ち切り踵を返したロクスは、少し行ったところで立ち止まると駆け戻り、ゆっくりと屈み込んでシロの頭を撫でた。その表情は優しかった。
 普段、一応は聖職者だということを忘れてしまうくらいに、珍しい――というか初めて見る、慈愛に満ちた眼差し。
「じゃあ、僕は行くからな。元気でいろよ」
 シロは言葉を理解してか、きゅーんと悲しげな声で鳴き。
 ロクスは少し困った顔をしたけれど、慌てた感じでバタバタと今度こそ、その場から走り去る。
「……変なの。ねえ?」
 寂しげにロクスの後ろ姿を見送っているシロに、もう少し詳しい話を聞いてみようか?と考えていると、

「ああ、お嬢ちゃん。ごめんなさいね、迷惑かけちゃって――助かったわ」

 買い物袋を提げ、飼い主が戻ってきた。
 とりあえず脱水の心配も無くなったようだ、と。

(……あれ? この人)

 落ち着いた状態で彼女と向き合い、遅れて気づく。
 女性の顔立ちは、なにより魂の気配が――よくよく見ればロクスと似ている。瞳の色も同じ紫苑だし、おそらく血縁者だ。

(なんで逃げるかなぁ?)

 にこやかに礼を述べ去っていく女性と、おとなしく散歩に戻ったシロを見送りつつ、首をひねる。
 たぶん近所の人っていうのは嘘だが、故郷での評判云々は本音なんだろうか……まあ、私がとやかく言うことじゃないだろうけれど。



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ロクスの両親。“普通” ってこと以外、具体的にどんな人だったかは原作ゲームに出てこなかったので、勝手に捏造。とりあえずロクスの容姿は母譲りとして、あんな美貌の一般人そうそういないだろうから、髪の色は地味に茶系で。おとなしい、協調性を大切にする人ってイメージ。ひねくれる前の8歳ロクスなんて、そうとう可愛いですよ。勝気な母ちゃんだったら、絶対、教皇庁にだって渡しませんよ。あと過去話に出てきたワンコ、実際どうなったのかなー。